優れた音楽批評は読者を楽曲や演奏へと誘い、すぐにでもそれを聴いてみたい気持ちにさせる。居ても立ってもいられなくさせるのだ。
映画についても全く同じだ。先日見つけた鈴村たけし著『冬のつらさを─加藤泰の世界』(ワイズ出版、2008)は、まさにそうした「居ても立っても」いられなくさせる、罪つくりな一冊なのだ。
やはり加藤泰の映画はスクリーンで観たい。とりわけ60年代から70年代初頭にかけての諸作はワイド画面で撮られているので、TVモニターではまるで観たことにならない。こういうとき、今は不自由な時代だなあとつくづく慨嘆。東京都内の名画座がほぼ壊滅して久しく、日本映画を大きなスクリーンで鑑賞する機会は、フィルムセンターでの上映を除けばほとんど皆無。
池袋の文芸地下、新宿昭和館、大井武蔵野館があった時代、ちょっと待てば加藤泰のあれこれを実見する機会が巡ってきたものだが、今ではDVDで時代劇や任侠映画を観る時代なのだ! やはりこれは不幸な倒錯した現象だと思う。
そういうわけで、居ても立ってもいられず、やむにやまれぬ思いで浅草まで出向く。
六区の邦画三本立上映館「浅草名画座」でこれが観られると知ったからだ。
緋牡丹博徒 お竜参上
1970 東映京都
監督/加藤 泰
脚本/加藤 泰、鈴木則文
撮影/赤塚滋
美術/井川徳道
音楽/斎藤一郎
出演/藤純子、菅原文太、山岸映子、長谷川明男、嵐寛壽郎、安部徹、沢淑子、汐路章
未見の方にこの傑作をどう紹介すればいいのだろう。途方に暮れてしまう。筋書を書けばいいのか。
渡世の旅を続けるお竜は、ある娘の行方を尋ねて浅草にやってきた。そこでは、一座の興行権を巡って、アラカン先生と安部徹が対立していた。お竜は娘を見つけることに成功するが、運悪く、悪辣な安部徹にさらわれてしまう。見所満載のシリーズ第6作がニュープリントで完全復活。瞬きせずに観よ。
どうだろうか。浅草名画座のチラシからの引用だが、これだけではどこがどう傑作なのか一向に伝わらない。困った。
浅草の興行街の利権をめぐって、ふたつの組が激突する。お竜さんの与するのは、義理堅く、古風に仁義を通す側(親分=嵐寛壽郎)なのだが、悪知恵に長けた新興勢力の前では勝ち目はない。大正半ば頃だろうか、黎明期の新劇界と、その背後に控えるやくざな興行界のありさまが、浅草の賑わいとともに活写される。
第三作『花札勝負』で描かれた眼病の少女のその後の行方が本作の経糸。浅草でようやく巡り会った娘は、スリの手先になっていた。その彼女に思いを寄せる男は、なんと敵対する新興勢力の組の若い衆。お竜さんは娘を諭し、アラカン親分のもとで更生の道を歩ませるのだが、しかし…。
抗争する組の狭間で、ロミオとジュリエットよろしく愛に殉じる若者(山岸映子・長谷川明男)。恋情を胸に秘め、言葉少なに語るお竜さんと流れ者・青山(菅原文太)。
愛し合う者たちのひたむきさを描かせて、加藤泰と並び立つ演出家はふたりといない。とりわけ、見かわす目と目、その眼差しの強さ、眼光の恐いほどの煌き。
溢れんばかりの優しさと、それと同量の、非道な者への凄まじい憎悪と憤怒。
しかも、そのエモーショナル極まる人間ドラマが、厳格に練り上げられたカット割りと、息をひそめるような長回し撮影によって、真っ向から堂々と描き出されるのだ。
その一部始終を厳しく見つめ、おおらかに肯定する監督の「眼差し」こそが、加藤泰の醍醐味なのかもしれない。そんな思いに捉われつつ、茫然とスクリーンに観惚れていた。
ラストの凌雲閣(浅草十二階)での死闘の凄まじさよ。何度見ても手に汗を握らずにはいられない。そして、世にも美しいお竜さんの顔の「流れる」ストップモーション。
途方もない壮絶な人間ドラマを目の当たりにした。ところが終わってみると、一時間半ちょっとしか経過していないことに驚く。ベルトルッチだったら四時間、アンゲロプロスだったら六時間は優にかかるだろう。逆にそれは、加藤泰の映画のなかでいかに濃密な時間が流れるかの証左でもあろう。
浅草六区を舞台にした作品をご当地で観る心愉しさもたっぷり味わった。表に出たら、相も変らぬ焼けつくような陽射し。それでも今日は胸を張って通りのど真ん中を歩いて帰った。