さしもの猛暑も夕方になると多少は和らいだ。幸い天気予報が外れ、夕立もどうやら免れた。そこでふと思い立って六本木まで足を伸ばし、国立新美術館(その名は有名無実だが)で展覧会を観ることにした。金曜なので八時まで夜間開館のはずだ。
巨大な展示場とあって複数の展覧会を同時開催しているのだが、今日は「ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展」を鑑賞しよう。
静物画の展覧会だというのに、イチオシ作品がベラスケスの肖像画『マルガリータ王女』だというのがなんだか妙なのだが、会場に足を踏み入れると、ネーデルラント=フランドル派を中心とする16~17世紀の「広義の」静物画を丹念に掬い上げた、それなりに面白い展覧会だった。「広義の」と断わり書きしたのは、通常なら風景画、肖像画、風俗画、寓意画に分類されるべき作品のなかにも、静物をモティーフとする細部を見出し、それらをも含み込んで、幅広く「静物表現の源流と系譜」を探り出そうという狙いがあるからである。
周知のとおり、ヨーロッパでは静物画の成立はようやく17世紀に入ってからで、他のジャンルに較べて著しく遅れをとった。しかも宗教画や神話画を頂点とする絵画のヒエラルキーの最下位に位置づけられ、貶められていた。オランダがスペインから独立し、新興市民階級が勃興することでようやく、「古典的教養の要らない」静物画や風景画に対する需要が鬱勃と巻き起こったのである。
本展はまさにその前後に焦点を当て、静物をモティーフとする種々雑多な表現のありようを紹介しつつ、オランダにおける静物画の確立までを辿る。ちょっと玄人好みではあるけれど、良心的な内容の展示であった。
こうしたコンテクストから眺めると、ベラスケスの王女像を「静物表現」として位置づけるのも、あながち牽強付会とはいえなくなる。マルガリータ王女の傍らには彼女のアイデンティティの証として花瓶に活けられたマーガレットの花が配されているからだ。
ウィーン美術史博物館(自然史博物館と一対なのだから、こう表記すべきであろう)の膨大なコレクションにネーデルラント=フランドル絵画が多数含まれているのは、この地域がハプスブルク王家の所領であった歴史に鑑みれば当然至極なのであるが、こうしてずらり並ぶとなかなかに壮観。
ただし仔細に眺めると、弱点もまた明らかである。出品作はそれぞれの画家のベスト・フォームを示す秀作揃いとはお世辞にもいえない。ヘーダもデ・ヘームもシーベレヒツもテニールスも、「ほんとはもっとずっと良い画家なのに…」という憾み無しとはしない。同じコンセプトでアムステルダム国立美術館やマウリッツハイス美術館のコレクションから選べば、遙かに充実した展覧会に仕立てられたはずだ。まあ、これは望蜀の歎のたぐいであろうが。
金曜の宵の展示室はひっそり閑としていて、じっくり鑑賞するのはもってこい。どの絵の前にも好きなだけ佇み、独り占めできるのは贅沢な愉しみだ。
それにしてもベラスケス作品の威厳と風格はどうだ。青とピンクの調和の完璧。幼くして皇妃たるべく定められた少女の侵しがたい気品。細部を絶妙に省略した筆捌きの巧緻。花瓶のマーガレットなどエドゥアール・マネそのものだ。まこと彼こそは画家の王者なるべけれと感嘆久しうした。
帰りは裏口より退出し、乃木坂駅から地下鉄に。乗り換えが多いのが辛いが、概ね着席したまま千葉まで帰りつけたのはもっけの幸いだった。
深夜近くに帰宅。懸案の原稿も仕上がったので、週末はのんびり過ごせそうだ。