昨夕、小倉エージさんの講演を聴きに出た際、ちょっとだけ駅前の書店に立ち寄り、文庫と新書とを一冊ずつ手に取った。文庫は吉田秀和の旧著『世界の指揮者』(新潮文庫版を大幅に増補したもの:ちくま文庫、2008)であるが、これは後日に回し、今日はもう片方の新書版を紹介しよう。
小倉孝誠
パリとセーヌ川──橋と水辺の物語
中公新書
2008
小倉孝誠さんとは数年前、ある美術書の企画で少しだけご一緒したことがある。温厚で物静か、いかにも誠実そのもののお人柄であるが、その該博な知識はまさに驚くべきものがあり、フランス文化万般についての旺盛な好奇心と、いびつなところのないバランスある知性を併せ持つ、一言で言うなら学者の鑑とも称すべき人物である。お歳は小生より少し下だろうか。
これまでも近代フランス文学ならびに近代都市パリを題材に、いくつもの好著をものしている小倉先生が、まさに彼にうってつけの主題で、手頃な一冊をお書きになった。もう一箇月も前に出ていたのだが、日本を留守にしていて気づかなかったのだ。
今では交通・物流といえば道路・鉄道・飛行機にすっかりお株を奪われているが、19世紀までは大小の船による移動・輸送・運搬が断然その他の手段を圧していた。本書はそうした時代におけるパリとセーヌ川の緊密な結びつきの諸相を余すところなく紹介する。パリを語ることはセーヌを語ることなのだ、という視点で、本書は見事なまでに首尾一貫している。
[…]セーヌ川が八〇〇キロ近い大河であり、そのうちパリ市街を流れるのはわずか十数キロにすぎないのに、セーヌがあたかも「パリの川」として語られ、表象されてきたのは偶然ではない。本書では、パリという都市空間からセーヌ川というトポス(場・圏)を抽出して徹底的にこだわり、その多様な相貌を読み解いてみよう。
本書は、セーヌ川とパリに関する観光案内的な書物などではいささかもなく、筆者の個人的な体験談を披瀝するものでもない。パリを中心としながら、その上流と下流にも目を配りつつ、セーヌ川を舞台に繰り広げられた生活、習俗、文化を歴史的に跡づけ、ジャーナリスティックな言説、文学、絵画、版画などがセーヌ川をめぐってどのような表象を提示してきたかを探ろうとする。
水運の「幹線道路」としてのセーヌ、パリ市民の行楽の場としてのセーヌ、博覧会の「展示装置」と化したセーヌ、災厄と水死体に溢れるおぞましいセーヌ、数々の美しい橋の架かるセーヌ。
小倉さんは平易で親しみやすい筆致で、『タブロー・ド・パリ』を、ゴンクール兄弟を、フローベールとモーパッサンを、ゾラを、アポリネールを、ヘミングウェイを、ヨリス・イヴェンスの映画『セーヌの詩』までを援用して、あらゆる角度から考察を加える。その面白さは比類がない。
個人的に最も嬉しく読んだのは第二章「運河に生きる」。
パリを訪れるたびに必ずこの界隈を散策するのを無上の歓びとする小生にとって、サン=マルタン運河とそこで営まれる庶民生活をめぐる記述は、本書の白眉かと思われた。ウージェーヌ・ダビの「北ホテル」、マルセル・カルネの『北ホテル』、さらにはフローベールからメグレ警視までを援用した懇切な文章は、まさしく「水も漏らさぬ」「水際だった」仕上がり。
嗚呼…と深く溜息。いつになったら、この運河を再訪できるだろうか。ここに浮かぶ平底船(ペニッシュ)上で夜ごと催されるオペラ興行こそは、小生がこれまでの人生で観たあらゆるスペクタクルのなかで一、二を争うスリリングな「見もの」なのであった。