(6月17日のつづき)
マレーヴィチが1927年ベルリンに帯同した作品群はすべて彼自身のコレクションであり、それらを彼は友人に預けたのであって、贈呈も委譲もしていない。にもかかわらず、作品を託され保管した者たちは、そうする権限をもたなかったはずなのに、それらを売却してしまった。
アムステルダム市立美術館にある有名なマレーヴィチ・コレクション(油彩画・グアッシュ三十数点、素描多数)はその重要な一部をなす。ニューヨーク近代美術館に伝わるマレーヴィチ作品のほとんども、おなじ来歴を有する。
いわばそれらは、マレーヴィチに所有権があるにもかかわらず、本人やその親族の預かり知らぬところで転売され、思いもよらぬ場所で長い年月を過ごしたことになる。
もっとも、ロシア国外に運び出されたマレーヴィチ作品はきわめて稀だったから、欧米の人々にとって、この画家の飛び抜けた独創性や先見性を認識するうえで、それらの作品はまたとない機会を提供することとなった。アムステルダムの作品群は1958年から同市の市立美術館に収蔵展示されており、ニューヨーク近代美術館に至っては1936年という早い段階で、それらを展覧会に出展した。20世紀芸術のパイオニアとしてのマレーヴィチの偉大さに逸早く気づき、それを世界に知らしめたふたつの美術館の功績は否定すべくもない。
たいそう皮肉なことに、MoMA の館長アルフッド・バーがマレーヴィチを「発見」したのと同じ頃、肝腎のソ連本国ではマレーヴィチを含むロシア・アヴァンギャルドの作品のほとんどは「社会主義リアリズム」に背馳する「ブルジョア的頽廃」と断じられ、ほぼ半世紀の間、美術館・展覧会など、あらゆる公共の場から姿を消し、画集などの出版物にも掲載されることが絶えてなかった。それらは公式の歴史から抹消され、文字どおり「無かったこと」とされたのである。「マレーヴィチ? そんな芸術家などわが国にはかつて存在したためしはない」というわけだ。
今となっては信じがたいことだが、それが20世紀の現実だったのだ。
それから幾星霜。
ソ連邦崩壊から間もない1990年代のこと、1927年に国外に持ち出されたまま返還されていないマレーヴィチ作品群に注目した辣腕のロシア人弁護士がいた。彼はマレーヴィチの遺族を八方手を尽くして捜し出し、彼らを説き伏せて、欧米の美術館を相手取った「返還要求」の訴訟を起こしたのである。
最初に屈服したのは、ハーヴァード大学付属ブッシュ=ライジンガー美術館だった。ここには1957年以来、マレーヴィチの「スプレマティズム絵画」一点(『長方形と円』 1915
→これ)と素描一点が収蔵されていたが、どちらの作品もハノーファー州立美術館館長アレクサンダー・ドーマーがアメリカ亡命時に持参し、のちにこの美術館に寄贈(売却とも)した経緯をもつ。とうてい訴訟に勝ち目がないと悟った大学当局は、あっさりこの二点を遺族側に引き渡すことを決断した。1999年のことである。
事態の推移に懼れをなしたのは MoMA である。
(明日につづく)