1927年夏、マレーヴィチは国外旅行に出た。目的は大掛かりな個展の開催である。彼がロシアを離れるのは、後にも先にもこのときが唯一の機会である。
彼はその時点で手許にあった油彩画約七十点、多数の素描作品を携えてレニングラードを出発、ワルシャワとベルリンで回顧展を催したのである。自らの軌跡を明らかにすべく、最初期の印象派もしくは点描派スタイルの小品に始まり、フォーヴ風のプリミティヴな作品、「立体未来派」の実験を経て、未踏の抽象世界を探索した「スプレマティズム絵画」、そして「絵画の消滅・終焉」へと至るという全軌跡である。この時点で、マレーヴィチは絵画制作をほぼ完全に放棄し(なぜなら絵画は「死んだ」、あるいは次なる次元に進化したから)、奇妙な建築模型の制作や、芸術理論の構築、後進の教育に力を注いでいた。
ベルリンでの展覧会が終了し帰国する際、マレーヴィチは展覧会関係者の建築家フーゴー・ヘリングに謎めいた提案を行う。「いずれ近々また戻ってくるから、そのときまで、展覧会出品作を預かっておいてほしい」と。そう言い残すと、彼は生涯の代表作(と自ら考え手許に留めおいた作品群)を異国に残して去っていった。
しかしながら、彼は戻ってこなかった。「そのとき」は無かったのである。
マレーヴィチには二度と国外旅行の許可がおりなかった。ソ連の対外政策ならびに芸術政策は大きく「孤立と自閉」へと舵を切りつつあり、密かにドイツへの移住を考えていたとおぼしいマレーヴィチ(彼は訪独中にバウハウス関係者と接触している)に対し、当局は疑惑と警戒を深めていたのである。
1933年、ナチス政権成立。1935年、マレーヴィチ病歿。享年五十七。
ベルリンに残されたマレーヴィチの作品群はしばらく同地の倉庫に保管されていたが、「頽廃芸術」排斥の嵐を逃れるべく、それらは極秘裏にハノーファーの州立美術館に移された(移動の困難な大作数点はそのままベルリンに残され、のちの空襲で焼失したと考えられる)。館長アレクサンダー・ドーマーは作品の価値を認識し、それらを美術館地下に秘匿した。
1935年、展覧会「キュビスムと抽象美術」準備のため訪欧中のニューヨーク近代美術館初代館長アルフレッド・バーはドイツでこのマレーヴィチ作品群の存在を知り、ドーマーと接触を図った。バーはそのうちの油彩画二点、素描二点を密かに購入し、そのほか十七作品を展覧会用に借用することを取り決めた。伝えられる話によると、ドイツ出国に際し、バーは官憲の目を逃れるため、購入したマレーヴィチ作品を「蝙蝠傘のなかに巻き込んで」持ち出したという。
ドーマーはバーとの約束を果たすべく、ニューヨーク宛てに作品を送り出すが、その際に数点が行方不明になったと推察される。
1938年、アレクサンダー・ドーマー、アメリカへ亡命。彼はこのときマレーヴィチの油彩一点と素描一点を帯同し、残りの作品をフーゴー・ヘリングに返却した。ヘリングはそれらを「人目につかない某所」に隠匿し、そのまま第二次大戦中もずっと留め置いた。
こうして、カジミール・マレーヴィチの回顧展出品作は数奇な運命を辿り、作家自身の預かり知らぬところで密かに売却され、貸し出され、あるものは永遠に失われた。
最終的にヘリングの手許に残った油彩画三十数点と素描多数が第二次大戦中ずっとナチス政権下のドイツ国内に留まり、苛烈な戦火を辛くも生き延びられたのは奇跡に近い。ヘリングは1958年に歿し、遺族は遺された「彼の」マレーヴィチ・コレクションをアムステルダム市立美術館に売却した。今もここで観ることのできる上質なマレーヴィチ作品群は、こうしてオランダの地に流れ着いたものなのである。
マレーヴィチ作品が運命づけられた過酷極まる「流浪の旅」を跡づけてみると、誰もがひとつの重大な事実に気づくであろう。
それらの作品群の所有権はマレーヴィチの手を離れていないという事実である。
(次回につづく)