昨夜は遅くまで寝つかれず、『プロコフィエフ日記』を読み耽っていたのに、五時半にハッと目覚めてしまう。相変わらず今朝もグリニッジは雲ひとつない快晴だ。
ベッドのなかで『ザ・イヤー・オヴ・マジカル・シンキング』の台本を読み終えてしまう。最後の最後までまるで救いのない、底なしに絶望的な物語なので、空恐ろしくなる。これを延々と聴かされたら、あまりの辛さに途中で逃げ出したくなりはしまいか。観劇にはそれ相応の覚悟が要るぞと肝に命じた。
今日も階下のカフェでイングリッシュ・ブレックファストを摂り、八時過ぎにホテルを出発。何はともあれ、ナショナル・シアター(NT)のボックスオフィスで前売券の有無を確認せねばなるまい。『ザ・イヤー・オヴ・マジカル・シンキング』は今週の「タイム・アウト』誌でも大きくスペースをとって紹介されていたように、目下この街のシアターゴアーの間で最も話題になっている芝居なので、そもそも切符が手に入るかどうか心許ない。しかも上演日は週の後半の木・金・土に限られる。
ようやく勝手がわかってきたDLRと地下鉄のジュビリー・ラインを乗り継いでウォータールー下車。九時にNTに着くと、すでにチケットを求める行列ができている。小生は十番目くらい。どうやら当日の残券を割引で売るシステムのようで、それを求めて朝から並ぶ人が少なくないのである。ほどなく定刻の九時半きっかりに扉が開く。
順番が回ってきたので窓口で尋ねると、案の定『ザ・イヤー・オヴ・マジカル・シンキング』は疾うに全日完売だという。「一枚も無いのですか?」と念押しすると、「ちょっと待て」と言う。「つい今しがたキャンセルが生じ、二枚だけリターン・チケットが手許にある。今週の木曜、15日の券でよければ売ることができるが」とのこと。願ってもないことだ、一も二もなく、その一枚を購入することにした。二階席の最前列だから、観劇には申し分ない。早起きして劇場窓口まで出向いた甲斐があった。
すっかり気を良くし、その足でウォータールー駅方向に取って返す。今度は先日『ピグメイリオン』が開幕したばかりのオールド・ヴィック座へと赴く。ちょうど10時になり、ボックスオフィスが開いたところだ。今宵は特になんのコンサートの予定もないので、「今晩のベスト・シートを」と所望すると、J列(10列目)のほぼ中央が一席だけ空いているという。これ幸いと、迷わずそこをゲット。
さあ、これで夜の行き先は決まったが、昼間はどうしよう?
あてもなくウォータールーから地下鉄のノーザン・ラインでトッテナム・コート・ロードへ出る。前回までの滞在では例外無くこの界隈に宿をとっていたので、懐かしさでいっぱいだ。
ヴァージン・メガストアでCDを漁ったあと、チャリング・クロス・ロード沿いに「フォイルズ」「ボーダー」「ブラックウェル」と馴染の新刊本屋を覗いて歩く。もっとも新本を買いはしない。
以前とは異なり、日本でも居ながらにしてネットで購入できるので、わざわざ重たい思いをして持ち返るには及ばないからだ。気になる本があったら、すかさず書名をメモ。バレエ・リュスの花形バレリーナで、経済学者ケインズと結婚したロポコヴァ(ロプホ―ワ)の評伝、世紀末の「サロメ」ダンサー、モード・アランの新しい評伝、イスラエルの美術館で催されたソ連の革命期ポスター展カタログなど、垂涎のアイテムも悉くパス。「ちょっと見るだけ」にする。どれもこれも相当な厚冊である。
昼食は上記の本屋「ボーダー」内のカフェで軽く済ませ、トラファルガー広場に差し掛かったら、もう一時近い。ふと、ここの教会、セント・マーティン・イン・ザ・フィールズで無料のコンサートが聴けることを思い出し、ふらっと入ってみる。ちょうど開演間近だったのでそのまま着席。
13:00- St. Martin in the Fields
"Baroque Encounters"
ボワモルティエ: コンセール 第一番 ハ長調
ペプッシュ: ソナタ ニ長調
テレマン: パリ四重奏曲 第二番 ホ短調
アマランソス・アンサンブル Amaranthos Ensemble予備知識もなくいきなり駈け込んだので、この合奏団のことは何ひとつ知らない。編成はヴァイオリン、フルート、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、チェロ。教会の大空間のアクースティックがまことに素晴らしく、確かにこれは天上の音楽のように響く。どれも未聴の曲だったが、『乞食オペラ』の作曲者として知るのみのペプッシュのソナタの美しさにいたく心打たれる。もう二度と聴くことはないかもしれないが。悲しいかな、テレマンの途中で猛烈な睡魔が襲ってきて、最後の拍手で目が覚めた。
夜の観劇に備え、体力を温存させておきたいのだが、どうしても街を歩き回ってしまう。古本屋をあちこち覗き(ただし収穫はなし)、トイレ休憩はナショナル・ギャラリー。ついでに今日はティツィアーノの「バッカスとアリアドネ」を眺める。こんなに美しい色彩の絵が世にまたとあろうか。
ようやく夕方になった(といっても真昼の明るさ)ので、エンバンクメントから遊歩橋でテムズを渡り、サウスバンクへ。ここでも本屋やCDショップを眺めていたら六時近くなったので、少し歩いてウォータールー駅近くのオールド・ヴィック座へ。まだ開場前なので、長い歴史を経て古色を帯びた建物の外観を飽かず眺め、写真に収める。
そのあと劇場地下のバー(とても感じの良い空間だ)でワインをいただいたあと、そぞろ入場する。席数は七百くらいだろうか、古風だがとても芝居が観やすい構造で、どこの席からも臨場感が得られるだろう。
19:30- The Old Vic
ピグメイリオン Pygmalion
台本/バーナード・ショー
演出/ピーター・ホール
出演/
ティム・ピゴット=スミス Tim Pigott-Smith (ヘンリー・ヒギンズ)
ミシェル・ドッカリー Michelle Dockery (イライザ・ドゥーリトル)
ジェイムズ・ローレンソン (ピカリング大佐)
トニー・ヘイガース (アルフレッド・ドゥーリトル)
マット・バーバー (フレディ・エインズフォード・ヒル) ほか今となってはこの芝居を、そこから派生した副産物であるミュージカル『マイ・フェア・レディ』と切り離して観ることは、どんな観客にも不可能だろう。それは出演者にとっても演出家にとっても同じことで、さすがのピーター・ホールにも、予め共有されたヒギンズ教授やイライザのイメージを大きく逸脱することはできない相談だ。
今回の旅に先立ち、この芝居の台本(日本語訳)を予習のため読んだとき(
→ここ)も、小生の脳裏に浮かんだのはミュージカルの実見体験(2003年、そのレヴューは
→ここ: ただし未完)やオードリー・ヘップバーン主演の映画によって培われた登場人物像にほかならず、そこから離れることはできなかった。早い話、ヒギンズ教授といえばレックス・ハリソンなのであり、今夜の舞台でも、ピゴット=スミス演ずる教授に対して、「ちょっと中年男のしつこさやいやらしさが出過ぎてやしないか」などと思ってしまう。それに対し、可憐にして健気なドッカリー嬢の演技が安心できるのは、そのイライザ像が観客の「デジャ・ヴュ」を裏切っていないからかもしれない。
とはいえ、熟知したストーリー故に言語の壁が乗り越えられることも確かで、ミュージカルとほとんど共通の台詞もほうぼうに頻出するから、異邦人にとってこの芝居は十二分に楽しめるし、演出の方向性や役作りのあれこれを詮索する余裕も生まれようというものだ。
ショーの作劇術には大胆な省略法も用いられており、例えばイライザに施される「英会話特訓」はほとんど描かれない(だから "The Rain in Spain..." 以下の台詞は無し)し、大使館の舞踏会でのイライザの社交界デビューも、控えの間や帰宅後のヒギンズとピカリングの会話のなかで語られるのみである。スペクタキュラーな場面は敢えて登場させないのだ。
これは台本を読んで予めわかっていたことなのだが、ショーの書いた幕切れはあまりにも呆気ない。
自分がヒギンズ教授の操り人形に過ぎないと悟ったイライザは、教授が自分を愛し始めていることを知りながら、それでもプイと出ていってしまったきり戻らない。さながら『人形の家』のノラが夫を見限るのと同じ按配にだ。
実際にそれを目の当たりにしてみると、この結末はヒギンズに対してあまりに酷だという印象を免れない。いかに我儘でしつこい存在だとしても、彼は終始一貫、善意の人なのであり、このような仕打ちに遭うのは理不尽と言わざるをえない。「そもそも人生は理不尽なのさ」というのがショーの皮肉なメッセージかもしれないが、このエンディングの呆気なさ、後味の悪さは承服しかねる。ラーナー&ロウが『マイ・フェア・レディ』で、ショーの意図を最大限に尊重しつつ、それでも(1938年の映画版『ピグマリオン』に倣い)ハッピー・エンディングに改変したのは「むべなるかな」なのである。
そんな複雑な思いを胸に秘めつつ、芝居のはねた劇場を後にし、ウォータールー駅からジュビリー・ラインとDLRを乗り継いで帰途につく。
ところがDLRが途中のクロスハーバー駅で停まってしまい、復旧の見込みは立たないとのアナウンス。仕方なく暗闇のなか線路伝いに三駅分とぼとぼと歩き(しかもテムズ川をトンネルで渡らねばならない)、へとへとに草臥れ果ててグリニッジまで帰還。いやはや酷い目に遭った。
ホテルの部屋に辿り着いたのは十一時半。
湯舟に疲れた体を浸したあと、インスタントだが熱い珈琲を淹れ、ベッドに横になる。
長い一日がようやく終わった。さて、と、昨日に引き続き、"Three Oranges" に改めて目を通そうとしたそのとき、小生は思いもよらぬ事実に気づくことになる。もう時計は十二時を回っていた。