今日はこの旅の第一のハイライトだ。
ゴールドスミス・カレッジで「プロコフィエフ・スタディ・デイ」が催され、各地の研究者が参集する。小生のような門外漢には居場所がないという懼れと、それでもぜひ聴講したいという希望の狭間で、この日が来るのをずっと待ち続けていた。
天気は昨日と同じく上乗。日中は暑くなりそうだ。
ホテルのカフェでの朝食も早々に済ませ、気分を新たに昨日と同じ177番のバスでゴールドスミス・カレッジへ。会場とおぼしきベン・ピムロット会館はひときわ目立つモダンな建物。屋上に取り付いている彫刻はあれはたぶんアントニー・ゴームリーの作品だろう。
玄関外で煙草をふかしていたら、急ぎ足でやってくるアーカイヴ司書フィオナ・マクナイト Fiona McKnight 嬢に出くわす。初対面だが写真で見知った顔なので、こちらからご挨拶。「あなたが機転を利かせて下さったお蔭で、寄稿ができ、今ここに来ている」という意味のことを口走った(つもり)。まだ少し早いが、建物に入れてもらい、ロビーで開場を待つことにする。
十時を少し回った頃合に、袋を小脇に抱えた小柄で短髪の女性が早足で現れ、ベンチに坐るこちらに向かって、いきなり「シンイチ! あなたがシンイチなのね!」と溌剌と言い放った。すぐ「ノエル先生ですね!」と返そうとして、咄嗟に思わず Noëlle Sensei と口走ってしまう。
すぐさま先生は白いヴィニル袋を小生に差し出し、「昨日やっと到着したばかり、まだ出来たてほやほやで、あったかいわよ」とのたまう。早速その場で封を切ると、なかからは最新号の "Three Oranges" が現れ出る。今日という日に間に合わせて下さったのだ。
表紙には白地にくっきりと
15そして
PROKOFIEV IN JAPAN
の文字が記されている。
逸る心を抑えきれず表紙を開くと、挟み込んだ附録の絵葉書が目に飛び込む。大森の大田黒元雄邸で撮影した記念写真。1918年8月1日の夕刻、別れを告げに来たプロコフィエフと、新婚間もない大田黒夫妻が一緒に収まったものだ。ああ嬉しい。日本近代音楽館の協力のもと、ご遺族の許可を得て小生が倫敦へ送っておいた写真。それがちゃんと絵葉書になっている!
さらに頁を捲ると、布川さんの論考 "Motoo Ohtaguro and Serge Prokofiev: an unexpected friendship" が六頁にわたって掲載されている。素晴らしいではないか、巻頭論文だなんて! 文字どおり、これは歴史的快挙である。ついに大田黒元雄は「世界デビュー」を果たしたのだ。プロコフィエフとの出逢いからちょうど九十年の歳月が流れたことになる。
標題にもあるように、この論文はふたりの青年(二十七歳と二十五歳)の東京での思いがけない出逢いと交遊を丹念に跡づけ、なぜこの時代に大田黒が、大田黒ただひとりがプロコフィエフの真価を理解できたのかを検証したものだ。詳しくはぜひ現物の雑誌を手に取ってみていただきたい。
ここでこの労作を口を極めて絶賛したいのはやまやまだが、それはできない相談だ。なぜなら本論考は布川さんと小生との共同執筆として発表されたからだ。自分も名を連ねた論文を褒めるわけにはいかない。小生の役割は手持ちの大田黒関連の著作をお貸しし、執筆途中であれこれ助言しただけで、英文自体はすべて彼女の手柄なのだが、プロットに小生のアイディアが反映していることは事実なので、脱稿後に相談のうえで「共同執筆」と相成ったものである。
それに続くのは "Motoo Ohtaguro interviews Prokofiev" なる翻訳記事。これは1918年7月2日、東京での初リサイタルを控えたプロコフィエフが大田黒の質問に答えた興味深い一問一答である(出典は『音楽と文学』1918年8月号)。このセクションの翻訳はゴールドスミス・カレッジの研究者 Naomi Matsumoto さんが手掛けている。達意の英訳である。
そしてそのあとに控えるは、わが "Yorisada Tokugawa and the story of an unrealised commission" なる論考だ。突然の執筆依頼に応え、三日調べて四日で書いた代物なので、果たして味読に値する内容であるか、いささか心許ない。ともあれ、日本滞在時のプロコフィエフの日記に最も頻繁に登場する「トクガワ侯爵」がいかなる人物かを世界に紹介できただけで本望である。
特集の締め括りに、その「プロコフィエフ日記」の英語版の翻訳者で、つい最近その第二巻目 Sergey Prokofiev "Diaries 1915-1923: Behind the Mask" (Faber and Faber, 2008)を上梓したアンソニー・フィリップス Anthony Phillips 氏が "Prokofiev in Japan: a view from the interior" なる論考を寄せている。
ここまでで二十三頁。雑誌全体の過半を占める堂々たる特集である。これに参画できたことは幸運の極みであり、身に余る光栄であると実感。
嬉しさのあまり、ベンチに坐ったまま夢中で頁を繰っていたら、スタディ・デイの開始時刻である十時半が迫ってきた。慌てて会場のレクチャー・シアターに駆け込む。
さほど広くない階段教室に聴講者は三十名ほどだろうか。アーカイヴ司書のフィオナさんが司会進行役を務める(彼女は発表者のひとりでもある)。
最前列にはノエル先生をはじめ、上述のフィリップス氏、プロコフィエフ評伝の著者として知られるデイヴィッド・ニース David Nice(発音は「ナイス」でなくニースである由)、ダニエル・ジャッフェ Daniel Jaffé の両氏らが陣取る。錚々たる顔触れを前にして発表を行う若い研究者の心中たるや、いかばかりだろうか。
発表者は司会のフィオナさんを含め六名。見たところ、三十代前半とおぼしく、大学の博士課程、もしくは助手クラスの若手研究者たちなのであろう。プロコフィエフの少年時代の作品の分析から、晩年のエイゼンシュテインとの共同作業、さらには後世のポップ・ミュージックに及ぼした影響まで、取り上げられる主題は多岐にわたる。一名あたりの持ち時間は二十分。このあたりは日本での学会発表と大差ないのではないか。(当日のプログラムは
→ここ)。昼食休憩を挟んで、午前に三名、午後に三名が登壇。さらに午後一番に「ゲスト・レクチャー」として、プロコフィエフ研究の俊英、サイモン・モリソン Simon Morrison 氏(プリンストン大教授)が「原典版『ロミオとジュリエット』」について注目すべき発表を行う。さすがにこのモリソン教授のみ、持ち時間は一時間と潤沢だ。
小生は受付で手渡された「発表要旨」と首っ引きで、メモを取りつつ熱心に聞き入ったのだが、限られた時間内での発表とあって、いきおい誰もが早口になりがちで、当方の聴取能力ではどこまで理解できたのやら、はなはだ心許ない。午前の部が終了した時点ですでにへとへとになる。
キャンパス内は右も左もわからず往生するが、周囲の方に教えられ、学生が屯するカフェでなんとかマフィンと珈琲にありつけた。
たまたま同席になったエドワード・モーガン Edward Morgan 氏はいかにも気さくな好々爺といった風情の御仁。彼の名は "Three Oranges" のバックナンバーでしばしばお目にかかっていたが、ノエル先生の古くからの盟友で、ロシア語とフランス語に堪能な氏は、創刊号以来ずっと論考の英訳を担当しているとのこと。今も週に二度はアーカイヴに通い、手書きドキュメントの入力作業をこつこつ続けているのだそうだ。
午後の部はモリソン教授の「ゲスト・レクチャー」で始まった。たいそう興味津々の内容であることは予め情報を得ていたのでよく心得ていたのだが、アメリカ訛りで速射砲のように繰り出される彼の英語を理解するのは至難の業。いずれ同内容の論考が "Three Oranges" に発表された時点で、改めてよく咀嚼してみたい。
ともあれ、プロコフィエフのバレエ『ロミオとジュリエット』が「ハッピーエンド」の結末でいったんはピアノ・スコアの形で完成をみており(ラードロフ=プロコフィエフ版)、オーケストレーションの指示も記されているので、このヴァージョンでの復元上演が可能になったという事の顛末はなんとも興味津々。
結末でロミオもジュリエットも命拾いし、ふたりでデュエットを踊るというくだりをピアノ録音で聴かせて下さったのだが、のちに第五交響曲の第二楽章に用いられる主題(冒頭のクラリネット・ソロに導かれる)がはっきりそれとわかる形で用いられているのが衝撃的だった。
二時から三時までは小休止のティータイム。新刊の『プロコフィエフ日記』を特別価格で販売するというので、一も二もなく購入し、自己紹介したうえでフィリップス氏ご自身にサインしていただく。第一巻と同様、ずしりと持ち重りのする労作である。早速その場で頁を繰って、日本滞在時の記述に目を走らせる。読み易い、達意の英訳であるらしい。
後半の三人の登壇者のなかではフィオナさんの発表に最も心惹かれた。エリック・チショルム Elik Chisholm という半ば忘れられたスコットランドの作曲家とプロコフィエフの知られざる親交に光を当てた研究だったのだが、一見すると小さなエピソードめいた交友に過ぎないようでいて、一般に「利己的で倣岸」と思われがちなプロコフィエフのこまやかな心遣い、国境を越え西欧諸国とソ連の架橋たらんとする態度がうかがわれ、興味が尽きなかった。かくもインターナショナルな志向をもった彼に、鎖国同然に自閉していくスターリン体制はどんなに辛かったことだろう!
すべての発表を終え、四時半に「スタディ・デイ」はいったんお開きになった。
このあと近所の美味しいタイ・レストランを教えていただき、そこで簡単な夕食を摂ったあと、今度は大学本館(リチャード・ホガート館)内、音楽学部の167教室に急いでとって返す。六時から興味深いアトラクションが始まるからだ。渡米後のプロコフィエフが1920年代の初めにニューヨークで残した自動ピアノ用のピアノロール再生のお披露目があるという。
ノエル先生、フィリップス氏の挨拶に引き続き、プロコフィエフによる自動ピアノの演奏が開始された。
これはピアノラ Pianola 社製の Duo-Art と呼ばれる、当時としては最も進化した自動ピアノであり、再生能力が格段に優れているといわれる。一般に想像されるようなロールをピアノに内蔵させたタイプではなく、「外付け」、すなわちロールと連動した十本の機械の指が直接ピアノの鍵盤を、ピアニストさながら「演奏」するというメカニズムによるもの。
プロコフィエフが Duo-Art のために録音したロールは十八種存在するとされるが、当夜はそのうちの十一までが再生に供された。
行進曲 作品12-1
ガヴォット 作品12-2
前奏曲 作品12-7
スケルツォ 作品12-10
ガヴォット 作品49-3 (グラズノーフ)
Grillen 作品25-1 & 6 (ミャスコフスキー)
前奏曲 作品45-3 (スクリャービン)
翼ある詩 作品51-3 (スクリャービン)
「三つのオレンジへの恋」間奏曲
「三つのオレンジへの恋」行進曲
「シェエラザード」による幻想曲 (リムスキー=コルサコフ、プロコフィエフ編)(まだ書きかけ)