昨日は十時間のフライトののち午後三時にヒースローに到着、バッゲイジ・リクレイムで真っ先に荷物が出てきて、「こいつは縁起がいいぞ」と思ったのだが、運の良かったのはそこまで。
空港駅の窓口でオイスターカード(倫敦のスイカですな)を購入、地下鉄で都心のチャリングクロスに着いたのはよかったが、そこから国鉄でグリニッジまで行こうとしたら、オイスターは使えないという。長い行列でようやく切符を買ったら、事故でグリニッジ方面はダイヤが乱れているという。一時間も待たされた挙句、トランクを引きずって満員電車に乗り込む。二十分ほどもみくちゃになって着いたグリニッジはまるで見知らぬ田舎町。六時過ぎ(といっても真昼の明るさだ)汗だくでようやくホテルに辿り着いたら、クレジットでの支払いはサインでは不可、暗証番号(ピンナンバー)が不可欠と聞かされる。これまでずっとサインで済ませてきた小生は暗証番号を知らないのである。さんざん頼み込んで、ようやくサインでもOKとなったが、この交渉で全精力を消費し、部屋で旅装を解くと、そのままベッドにどっと倒れこむ。
というわけで、長旅で疲労困憊だったはずなのだが、熟睡はできず朝五時に目覚めてしまう。外は快晴。朝風呂を浴び、ホテル内は禁煙なので玄関外で煙草をふかしたあと、一階のカフェでイングリッシュ・ブレックファスト。卵の調理法を聞かれ、咄嗟に「目玉焼き」という単語が出てこず往生する。
そのあと自室に戻り、込み入った苦く辛い電話をかけ、私事ながらひどく落ち込む。とはいえ、外は上天気なのだから、と気を取り直して九時過ぎにホテルを出る。明日訪れることになるゴールドスミス・カレッジまで、下見を兼ねて出かけてみる。近くのバス停から177番のバス。乗り込むときオイスターカードを所定の場所にタッチ。スイカと同じ要領だ。乗客には大多数が黒人、次いでアジア系が多く、白人はむしろ少数派らしい。このあたりも都心とはずいぶん違った印象だ。
十分ほどで大学のあるニュー・クロスに着く。キャンパスは無秩序に入り組んでいて、どこがどこやらさっぱり見当がつかない。プロコフィエフ・アーカイヴのある図書館の建物だけは確認できた。
図書館前のバス停から都心方面行きのバスに乗り込み、ペッカムという庶民的な(少々物騒な)街を経由して、シティ中心部へと向かう。車窓の風景を眺めていたら、煉瓦積みの古びた劇場が沿道に建っており、Old Vic の看板が見えた。ここではバーナード・ショーの『ピグマリオン』が開幕になったところである。咄嗟にバスを飛び降り、ボックスオフィスでチラシを貰い、連日まだ残席があることを確かめておく。切符を買うのはもう少しあとにしよう。
ここからはウォータールー駅、サウスバンク、エンバンクメント、そしてトラファルガー広場へと、先刻お馴染みのテムズ近傍をあてどなくそぞろ歩く。勝手知ったる界隈とあって、ようやく「ああ倫敦に戻ってきたのだ」という嬉しい実感がじわじわ滲み出る。それにしても観光客の多いことといったら! 当方もそのひとりなので文句を言う筋合いではないが、周囲からロシア語、フランス語、イタリア語、中国語が飛び交うのが嫌でも耳に入る。とりわけ南岸のサウスバンクは織るような人の波、波、波。新装成ったロイヤル・フェスティヴァル・ホールは、カフェも本屋もCDショップもすべて外(岸辺)に向けて配置し直され、どこも大変な盛況ぶりだ。
フェスティヴァル・ホール並びのBFI(ブリティッシュ・フィルム・インスティテュート)とNT(ナショナル・シアター)の書店にも寄ってみる。NTに三つある劇場のうちリトルトンでは、ヴァネッサ・レッドグレーヴ独演の芝居が続演中だ。小生にとっては十代の頃からずっと憧れ続けてきた女優であり、その一人芝居とあっては大いに心惹かれ、心掻き立てられるが、果たして新作を観て理解できるのか。とりあえずNTの書店でみかけたその芝居の台本を買って読んでみよう。ジョーン・ディディオン Joan Didion という女性の書いた『呪術思考の年 The Year of Magical Thinking』という芝居。自伝的な内容による同名のベストセラー小説が原作らしい。
そろそろ草臥れてきたし、喉が渇いた、おまけに小用も済ませたい。そうなるとトラファルガー広場に面したナショナル・ギャラリーと相場が決まっている。入場は無料だし、トイレも清潔だ。
生理的欲求を済ませ、クロークにバッグを預けて身軽になって、ついでに(といっては失礼だが)ちょっとレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」下絵(カルトン)にご挨拶。驚いたことに、先年までは厳重に警備された別室に物々しく展示されていた作品が、普通に他の絵画と並んで壁に掛けられている。明るい照明のもとでこの絵を観るのはこれが初めてだ。う〜ん、いつ観てもこのカルトンは凄い、間違いなくレオナルドの(ということは人類の到達し得た)最も気高い傑作だ。ほとんど神業だという気がいつもする。
今日はこの絵一枚だけにしておく。ナショナル・ギャラリーではいつもそうする。そうしないと、何時間かけても観きれないのだから。
入口脇のカフェで小休止。エルダーフラワーの清涼飲料がある。ボトル入りで、コーディアルを炭酸で割った Elderflower Presse という名称。う〜ん、喉に爽やか。このなんだか頼りないようなとりとめない味わいが小生にとっては倫敦そのものなのだ。(エルダーフラワー・コーディアルについては
→ここ を参照)。
すっかりリフレッシュした気分で美術館を後にし、近くのセシル・コートの古本小路をちょっと覗いてみた。児童書の Marchpane も音楽書のTravis & Emery も健在だったのはご同慶の到り。ただし今日は「ちょっと見るだけ」にしておく。この「世界一小さな」古本街については以前ちょっと書いたことがある(
→ここ)。
そろそろ時間が気になってくる。日本にいる間にHPから今夜のロイヤル・バレエ公演を予約してあるからだ。少し早いが、コヴェントガーデンまで歩き、ボックスオフィスでチケットを発券してもらう。その際クレジットカードを提示するのだが、暗証番号入力は不要とわかり一安心。開演の七時半までまだ間があるので、劇場のバーでプログラム冊子を読みながら、ちびちびワインをいただく。
今夕の演目はトリプル・ビルだ。
19:30- The Royal Ballet
at Royal Opera House, Covent Garden
チャイコフスキー音楽 バランシン振付 セレナード
プロコフィエフ音楽 キム・ブランドストラップ振付 ラッシズ Rushes
アーノルド音楽 アシュトン振付 女王讃歌 Homage to The Queen1934年の『セレナード』も1953年の『女王讃歌』も、もはやバレエ史の古典だが、滅多に実演を観ない小生にとっては初めての舞台。一方、真ん中の『Rushes』は正真正銘の新作だ。今日のお目当てはプロコフィエフの映画音楽を援用したというこの作品である。プロコフィエフ・アーカイヴのフィオナさんから「観ておくといいわよ」と予めサジェスチョンを頂いていた。
ここで用いられたプロコフィエフの音楽は、ミハイル・ロンム監督の映画『スペードの女王』のために1936年に書かれながら、複雑な政治的事情で映画そのものが製作中止、音楽もお蔵入りとなってしまった一連の短いシークエンス用の小曲ばかりだ。幸いそれらは2003年にミハイル・ユロフスキーの手で再編され、今ではCDで全曲が聴ける(独Capriccio 同盤のレヴューは
→ここ)。十年後に第五交響曲の第三楽章に用いられる主題がすでに登場することでも知られる。
振付家はこの音楽に、ドストエフスキーから借りた物語を新たに当て嵌め、男ひとり、女ふたりの三角関係のドラマを設定した。個々の楽曲の拡大延長とオーケストレーションはマイケル・バークリーが担当、一部プロコフィエフの他の楽曲まで投入して全体を仕上げたのだという。
で、その首尾はいかに?
プログラム冊子の解説によれば、演出家が依拠したストーリーはドストエフスキーの『白痴』、それも公刊版ではなく、初期の未定稿なのだといい、そこでは主人公の男性はのちにムィシュキンとロゴーシンにわりふられる二面性を併せもつ複雑な人物として形象化される。相手役の女性も、ナスターシャとアグラーヤでなく、聖性と魔性を象徴するふたりとして登場する。このバレエが "Fragments of a Lost Story" と副題がつけられたひとつの所以である。(もうひとつ、これが中断された企画のために書かれた映画音楽であることも暗示していよう。)
ひとりの若者と、正邪ふたりの女という、ヨーロッパでは伝統的ともいうべき関係性を軸に、このバレエは展開する。もともとのプロコフィエフの映画音楽がシナリオ(すなわちプーシュキンの原作『スペードの女王』に基づく物語)に対して有していたはずの物語性や描写性はいったん捨象され、新たなストーリーに基づいて再編成され、全く新しい作品として蘇ったものといえよう。もしプロコフィエフ自身がこの舞台を観たらどう思うかはわからないが、私見では音楽はそれなりに舞台上での出来事をよくフォローしており、何よりもCDで聴いたときに較べ、個々の楽曲に内在していたドラマトゥルギーが、別の物語を身に纏うことで瑞々しく甦ったように思われた。
これがのちのちロイヤル・バレエ団のレパートリーとして定着するとまでは予測できないものの、例えば『空中ぶらんこ Trapeze』や『ドニェプル河畔で』といったプロコフィエフ中期のバレエ作品と併演されれば、さぞかし面白かろうと想像された。ともあれ、これは一見に値する企てであることは確かだろう。
冒頭の『セレナード』はいかにもバランシン。バレエの枠内に留まりながら、高度な抽象性を目指したもの。上品で高雅で、ちょっと冷たい感触だ。チャイコフスキーの曲順を躊躇いもなく反転させる大胆さには吃驚したが。最後の『女王讃歌』は視覚的には豪勢で楽しいが、聴こえてくるマルコム・アーノルドの音楽の品格の乏しさにうんざり。
八年ぶりのコヴェントガーデンなので、懐かしさのあまり、幕間に生姜味のアイスクリームをお代わりしてしまった。
終演後はチャリングクロス駅まで歩き、そこから昨日と同じグリニッジを通る列車を待つ。一時間に二本だけというのはちょっとしんどい。結局ホテルまで一時間以上かかってしまう。これからの毎晩が思い遣られるなあ。