いよいよ明日は旅立ちだ。
最後に倫敦を訪れたのは2003年8月のこと。翌月には永年奉職した美術館を辞めることが決まり、夏休みを利用してモスクワでアレクサンドラ・シャツキフ女史にお会いする予定を組んだ。翌年に開催する「幻のロシア絵本 1920-30年代」展のカタログに寄稿していただけるよう、お願いに行くのが目的だった。言葉がまるで通じないロシア訪問はちょっと苦痛なので、往路まず英国に立ち寄り、数日を過ごしたのちモスクワ入りするという変則的な旅程を組んだ。
今後は貧乏暮らしが予想されるので、もう当分この街を訪れることはあるまい、という思いで、ひどく感傷的になっていたのだろう、観るもの聴くものがいちいち心に沁みた。もっとも夏のオフシーズンゆえ、「プロムス」を二晩と『マイ・フェア・レディ』を辛うじて鑑賞できただけなのだが、それでも涙が溢れ出て困った。
それから五年がたった。
貧乏暮らしは一向に変わらないが、全く思いもよらぬ道筋から、どうしても倫敦を訪れないわけにはいかなくなった。
一通のメールに始まった偶然の成りゆきから、プロコフィエフ財団とそのアーカイヴとの繋がりが生まれ、財団の研究誌に拙稿が掲載されることになった。この機会にぜひ一度じかにお目にかかって話をうかがいたくなったのだ。「ぜひお会いしましょう」と、ノエル先生(論文を手直しして下さったから恩師なのだ)も、フィオナさん(そもそもの発端をつくったのは彼女だ)も、親切に言って下さっている。
拙い英会話で何がお伝えできるのか、まことに心許ない限りだが、プロコフィエフに魅せられてもう四十年になるのだから、小生にも何かお話しできることはあるかもしれない。これまでに関わった「ディアギレフのバレエ・リュス」(1998)、「ダンス!」(2002)、「幻のロシア絵本」(2004-05)のカタログも持参し、小生が何者なのかもわかっていただきたいと願っている。
そんなわけで久しぶりに旅行鞄を取り出し、持参する本やらCDやら着替えの衣類やらを詰め込んでいる最中である。
その準備作業の傍ら、昨日からの続きでホルスト・シンガーズの「トルミス合唱曲集 Tormis: Choral Music」(Hyperion CDA 7601)を繰り返しかけている。聴けば聴くほど深く心に沁みる、ほとんど haunting な、といいたくなるような音楽なのだ。
選曲が抜群によい。まず冒頭に置かれた「エルネスト・エンノによる二つの歌」が心憎い。なぜなら、この二曲のうちの第一曲は彼が十八歳で作曲した若書きの合唱曲、第二曲は彼が事実上の引退を表明する直前の1998年の作品なのである。両者の間には技法の巧拙や表現の深浅など大きな違いが存するのだが、それでも紛れもなく同じひとりの人間の営みだと看取できる。この「アルファ」と「オメガ」を最初に配することで、本CDのコンセプトは明確になる。これはひとりの作曲家の全体像を描こうという意図で編まれたトータル・アンソロジーなのである。
「三つのエストニアの遊び唄」や、大作「忘れられた人々」の一部を構成する「リヴォニアの遺産 」は、すでにエストニア・フィルハーモニー室内合唱団のCDで耳に馴染んだ曲目なので、ホルスト・シンガーズの演奏の狙いや方向性の違いがくっきりわかる。それらを耳にすると、トルミスの合唱曲が辺境の少数民族の伝承歌に基づくローカルな音楽ではなく、おおらかな包容力を獲得した「世界音楽」なのだということがわかってくる。自らの特殊性にこだわり抜くところから、大きな普遍性が生まれるという、驚くべき逆理。そう、まさしく、かつてバルトークや小倉朗がかくあれかしと願ったように、それは国境を越え、民族の違いを乗り越えて、普遍の高みを志向する音楽なのだ。
本アルバムのライナーノーツはトルミスの歩んだ特異な道のりを初心者にもわかり易く解き明かした優れたもので、味読に値する(Meurig Bowen 執筆)。
トルミスの歩みを総括して、「この合唱音楽に特化した行き方こそは、トルミスをバルトーク、コダーイ、ヴォーン・ウィリアムズ、グレインジャーから抜きん出た存在たらしめた。民謡への関心を先駆的に示しながら、彼らはそれをもっぱら器楽や管弦楽に用いた点で、結局のところ純粋さに欠けていた。トルミスにとって、言葉と音楽は不離不可分だったのである」と結論づけているのは蓋し至言だろう。