(承前)
そうだ、徳川だ、徳川がいる! そう気づいた途端、なんだか論考が書けるかもしれないという気になっていた。英語で長い文章を書いたことのない小生に、そうまで思わせたのは、やはり「こんな信じがたい偶然のチャンスを、なんとかして生かさなければ!」という気持ちがあったからだ。
それにしても、会ったこともなく、専門的な音楽学者や歴史家でもなく、どれほどの力量かもわからぬ、メールで雑誌のバックナンバーを注文しにきただけの「どこの馬の骨ともわからぬ」未知の輩に、いきなり原稿執筆を依頼してしまう編集長の大胆さには驚くほかない。もしかしたら、その向こう見ずなチャレンジング精神こそが、小生の「やる気」に火を点けたのかもしれない。
善は急げと、その日(11月22日)の昼間に長いメールを書いた。まず初めに
I feel very much relieved to hear that you have already found the two reliable cooperators regarding Prokofiev's stay in Japan.
と前置きしたうえで、次のように切り出してみた。
私が提案できる「別の切り口」としては、ヨリサダ・トクガワ侯爵(1892-1954)があります。この人物はプロコフィエフに東京と箱根で会っており、大胆にもプロコフィエフに「日本滞在の記念として、ピアノ・ソナタの新曲」を注文しているのです(残念ながら実現しませんでしたが!)。ご存じのとおり、プロコフィエフは日記のなかで彼のことを7月12、17、22、28、31日、そして8月1、2日に言及しています。
徳川頼貞は誉れある「ショーグン」家の末裔であり、たいそう富裕な人物でした。1913年にロンドンへ留学し、ケンブリッジ大学で音楽学を学んでいます。1915年に帰国したあと、彼は東京のど真ん中の麻布に、初のクラシック音楽専用ホールを建設し、日本初の音楽図書館も開設しました。そこにはヘンデル、ヘンリー・パーセル、ハイドンらの肉筆楽譜の数々が収蔵されました。
彼がプロコフィエフと出会ったのは、この音楽ホールと図書館の完成の直前のことでした。
こんな調子で、レポート用紙一枚ほど書いた。手許にたまたま徳川自身の回想録があったので、それを用いてその生涯をざっと綴ったのだが、正直なところ、ほかに材料がないので、「これでほんとうに書けるのか」という不安が残った。
ともあれ、無我夢中で書き終わると、今度はきちんと推敲してからノエルさんに送った。
ここまでが11月22日のこと。小生が軽い気持ちでフィオナさん宛てに「追伸」で、「プロコフィエフは日本に来たことがあるんですよね」と書き送ってから、まだ一週間しか経っていない。
その日、小生は悠長にも横浜の黄金町で松田優作の映画なぞを観ている(
→その日のエントリー)。嵐の前の静けさというべきか。
ノエルさんからの返事は翌23日に届いた。
あなたがヨリサダ・トクガワについてお書きになるのなら、なんであれ読むのが楽しみです。それにより、当時の日本の文化についての理解が深まるのを期待します。ぜひ知っておいていただきたいのは、西洋では教養ある人々の間でも(私を含め)日本の文化史に対して知るところが少なく、これがわれわれを啓発する良い機会になるのではないかと考える次第です。オオタグロもトクガワも、私には興味深い人物だと思えます。あなたの論考が提出されたら、私が点検して送り返しましょう。心配なのは、次号のテクストのためのあらゆる素材が、クリスマスまでにすべて届いていなければならないこと。うまくいけばいいですね。
正式な執筆依頼とみてよかろう。
締切はクリスマス、ということはあと一箇月しか猶予はない。執筆のための調査も必要だし、出来上がった論考をノエルさんにチェックしてもらい、加筆訂正するというやりとりが何度か必要になる。たしかに、もう時間は僅かしかない。
本来なら、まず日本語で執筆したものを誰か英語に堪能な人物(できればネイティヴ)に英訳してもらうのが筋なのだが、そんな悠長なことを言っていられない。いきなり英語で書き下ろすほか手はあるまい。覚悟は決まった。やるしかないのだ!
次のノエルさんからのメールで、論考の分量は最長で3,000 words と指示された。そう言われても見当がつきかねるのだが、概ね四百字詰めで二十枚ほどの長さだと察しられる。
いささか泥縄だが、麻布台の日本近代音楽館(その所在地はかつて徳川頼貞の音楽ホールがあった場所と2ブロックしか違わない)に三日ほど通い、そのあと丸々四日かけて英作文と必死で取り組んだ。おそらく阿修羅の形相だったに違いない。
生まれてこのかた、こんなに根をつめ集中して取り組んだことはなかったと思う。その証拠に、このあたりの当ブログの記述は、連日まるで電文さながらに短くなり果てている(たとえば
→こう)。
12月2日の深夜、書き終わった英文原稿を倫敦のノエルさん宛てに送信した。まだ脚註もつけない本文のみの草稿だが、数えてみたら2,900 words あった。
約束の期日のクリスマスにはまだ間があるが、何しろ生まれて初めて書いた長文の英語である。専門家のネイティヴ・チェックで大幅に直されるだろう。全面的に書き改めるよう宣告されるかもしれない。最悪の場合は却下、掲載不可となる。ともかく、全知全能を絞って必死で書いたのだから悔いはない。人事を尽くして天命を待つ、といった心境で、その晩はぐっすり寝た。
そのあと、ノエルさんからは二度ほど質問とチェックがあり、あちこちに彼女の修正が加わったヴァージョンが届いたのが12月11日のこと。内容はそのままでも、表現がぐっと英語らしく改まったのが読んでいてわかる。ノエルさん曰く、
どうか私が手を入れすぎたと思わないで頂戴。そうする必要があったのですよ。とはいうものの、内容は立派で、すこぶる魅力的です。(The contents are great and quite fascinating.)
このくだりを読んで、それこそ天にも昇る心地がした。お世辞半分だとしても、こうまで褒められて、それまでの努力が報われた気がした。
そのあとは『プロコフィエフ日記』(露文)からの引用箇所をロシア語に堪能な宮本立江さんに逐一チェックしていただき、2月17日には修正を施し、脚註をつけた最終稿を倫敦へ送付して、この「向こう見ずな」冒険は終わった。原稿はほどなく正式に受理され、2008年5月刊行の "Three Oranges" 第十五号に掲載されることとなった。
明後日からの倫敦行きは、この掲載誌を取りに出向く旅なのである。