翌朝(11月22日)起きたら、また倫敦からメールが届いている。
しかも今度はフィオナさんではなく、編集長ノエル・マンさんからじきじきの便りだ。さすがにちょっと緊張する。
ディア・ミスター・ヌマベ、
フィオナ・マクナイトがあなたからの便りを転送してくれました。ご存知かもしれないけれど、私はプロコフィエフ研究誌『三つのオレンジ Three Oranges』の創刊者で編集長です。私は今、第十五号に忙しく取り組んでおり、そこには東京在住のロシア人が「大田黒元雄によるプロコフィエフへのインタヴュー」について寄稿する予定です。加えて、私の大学院の教え子で、今は東京に戻っている若い女性が「大田黒、帝国劇場、当時の演奏会事情」についてコンテクスチュアルな論考を書いているところです。あなたは何か別の切り口で(any other angle)知るに値するものを提案できそうですか?
ようやくそれでわかった。次号のテーマが「プロコフィエフの日本滞在」だったのだ。驚いたなあ!
でも、もう大田黒についてはふたりの執筆者が決まっていて、それぞれ専門領域から論考を寄せることになっているらしい。凄いじゃないか! 彼については誰かがキチンと紹介してくれればそれでいいわけで、むしろそうした研究者がついに出現したことを喜ばしく思った。そうか、いよいよ大田黒も「世界デビュー」を果たすのだ!
残念だ、悔しい、というような気持ちは不思議に沸かなかった。そもそも英語の論文なんか書けっこないし、音楽の専門家でもない小生なぞの出る幕じゃない。
ノエルさんは更に、『プロコフィエフ日記』英語版第二巻はすでに出版準備にかかっていること、訳者のアンソニー・フィリップスは用意周到な人だから手抜かりはないと思う、と述べた。そして更に、この件で「あなたがもう少し早く連絡を下さらなかったのが残念」としたうえで、
それよりも、もしよろしかったら、雑誌の次号に寄稿されたらいかが。
そう取れるような表現で("On the other hand, I might get back to you, if you don't mind, for the journal's next issue.")、やんわりと寄稿を促している。少なくとも小生はそう解釈して、思わず背筋のピシッと伸びる思いがした。
「何か別の切り口」ねえ、いきなりそう言われても、大田黒のことしか調べてこなかった小生としては困惑するばかり。でもここで引き下がってはならじ、それでは男がすたる、というような功名心がこのとき小生のなかで芽生えたのも事実である。
2003年9月、たまたま訪れたモスクワの書店で、新刊のロシア語版『プロコフィエフ日記』上下二巻を手に入れた。真っ先に1918年夏、すなわち日本滞在中の記述を(ほとんど読めないながら)必死になって目で追ったときのことを思い出した。
あれだけ連日会っていたわりに、日記の記述には大田黒の名はほとんど出てこない(たしか二回だけ)。その代わり、頻繁にもうひとりの別の日本人の名が登場することに気がついた。「徳川侯爵」なる人物である。
そうだ! 徳川がいたではないか。 「徳川侯爵」こと徳川頼貞についてだったら、少しは書けるかもしれない。
(明日につづく)