久しぶりに心に沁み入るような映画を観た。
小雨の降り止まぬなか、八時前に家を出て、JR→地下鉄→地下鉄→小田急を乗り継いで一時間半ほどかけて新百合ヶ丘に到着。ここに降り立つのはずいぶん久しぶりだ。
目指す場所は北口から三分ほど歩いたところにある瀟洒なモダン建築「川崎市アートセンター」だ。ここにある映画上映施設「アルテリオ映像館」で、お目当ての映画が上映される。
胡同の理髪師
監督/哈斯朝魯 (ハスチョロー)
主演/靖奎 (チン・クイ)
105分、中国映画、2006この作品は春に神保町の岩波ホールで公開され、連日満員になったという話題の中国映画である。そのとき観にいく算段だったのだが、友人で「アルテリオ映像館」の企画にも関わっている三浦規成さんから「五月の上旬に新百合ヶ丘でもやるので、こちらを観に来ないか」と誘われ、せっかくなのでこの新しい施設を見学がてら、はるばる川崎市まで足を運ぶ決心をした。この映画のことは家人も評判を聞き及んでいて、この機会にぜひ観ようということに相成った。五十歳以上の夫婦者はひとり千円という割引も魅力である。
胡同(フートン)とは北京の旧・紫禁城のすぐ裏手にある、「長屋」そっくりの建物がひしめく庶民的な旧市街。今度のオリンピックに伴う再開発で、あらかた取り壊されてしまう一郭である。
主人公はここで八十年も床屋を営む敬(チン)爺さん、九十三歳。
この役を実在の現役の理髪師の靖奎さん(九十三歳)が飄々と演ずる。いや、演ずるというより、素のままの自分の日常をキャメラの前で淡々と晒しているだけにみえる。その風貌が素晴らしい。なんと品格のある整った顔立ちだろう。毎朝六時に目覚めると、まず総入れ歯を装着し、鏡に向かって髪に丁寧に櫛を入れる。そして柱時計の針を正しい時刻に合わせる。その仕草の折り目正しさ、几帳面さが彼のそれまでの人生を彷彿とさせる。老いてはいるが、彼は自らの生活を生真面目に律しつつ送っている。そのあたりを問わず語りに活写する控え目な演出がまことに好もしい。
もう敬さんの床屋の店は開いておらず「しもた屋」同然。彼の寝起きする空間となっている。そのかわり彼は知人の求めに応じて出張で髪を切る。その場面での散髪や顔剃りの仕草はさすがに堂に入っている。髭にあたるジョリジョリという音が妙に心に残る。このあたりは晩年のブレッソン映画のような趣。
登場する誰もが主人公の古くからの友人で、しばしば集まってはマージャンに興ずる。気のおけない仲間たちなのだ。それらの人々は概ね職業俳優が演じているらしいのだが、とてもそうは見えない「素人っぽい」自然さが漂う。哈斯朝魯監督の演出の妙味であろう。
敬さんの周囲では次々に知人が死ぬ。老人なので致し方ない。そのひとりを訪ねて彼の死を発見した折に、たまたま引き取ることになった長毛種の黒猫が素晴らしく印象的。常に敬さんの傍らにちょこんと連れ添い、彼の日常を大人しく見ている。ただ黙って見ているという視点の導入が、このフィルムに複雑な味わいと奥行きを与えている。
しばしば敬さんは虚ろな眼差しで、古時計をじっと凝視する。あたかもそれが「死」でもあるように、微かな懼れをもって、しかも目をそむけずに、じっと見つめるのだ。
フィルムの後半は、その敬さん自身にも遠からず死が訪れるという予感に満たされる。といってもこの映画ではそれがいたって淡々と、しかも絶妙なユーモアを湛えた語り口で描かれるので、観ていて辛くなるということはない。
観終わったあと、この映画に惚れ込み、私財を投げ打って配給元を買って出たという元『キネマ旬報』編集長の植草信和さんと、本作の日本への初紹介者でもあるという評論家の佐藤忠男さんの対談を拝聴。近年の中国映画の動向から、主役の靖奎さんが高齢にもかかわらずキャンペーンで来日したときの話まで、面白くうかがった。
トーク終了後、帰りかけたら三浦さんが「近所なのでウチに寄っていかないか」とのお誘い。会場でこの映画を鑑賞された三浦さんのご母堂と連れ立って駅近くのマンションにお邪魔する。
奥様の手作りの料理が大皿に盛られ、麦酒と日本酒がふんだんに供された。
やがてトークを終えた植草さんも宴に加わり、映画配給の苦労話やら、若き日の思い出話やらで大いに盛りあがった。こんな場に居合わせられて幸せである。
たらふく飲み食いして三浦邸を辞去したのが夕方も四時を大きく回った頃。駅までお送り下さった三浦夫妻とお別れして、ふと見上げるとすでに雨もすっかりあがり、ゴダールの映画のワンシーンのような、明るく透明な空が雲間から覗いていた。