いよいよ明日から五月になる。
のっけから個人的な話で恐縮だが、小生が生まれて初めて音楽会なるものを耳にしてから、この5月3日でちょうど四十年になる。それがどうした、と言われてしまいそうだが、自分の音楽人生(といっても「聴くだけ」ですが)にとってこれはやはり大きな節目になるのだと感じている。
田舎の高校生にとって、クラシック音楽は身近なところに存在しなかった。両親はまるで音楽に関心がなかったし、まして楽器を習い覚えるような境遇ではなかった。
そんな小生でもどういうわけか小学校高学年の時分からラジオで音楽を聴くことを覚え、いっぱしのポップス少年になった。いくつもの洋楽ベストテン番組(どの局にもそういう番組が必ずあった)を欠かさずに聴き、ヒットチャートをメモした。当時の洋楽ベストテンは必ずしも英米ポップス主体ではなく、シャンソンやカンツォーネ(懐かしの「サン・レモ音楽祭」入賞曲!)や映画音楽も頻繁に登場する、一種のごった煮状態を呈していて、それがなんとも面白かったのだ。
ビートルズやローリング・ストーンズの擡頭も、米国のフォーク・ムーヴメントの隆盛も、リアルタイムで耳にした。ただし、すべては貧しいトランジスタ・ラジオの音を通してであり、ミュージシャンの姿形に接したという記憶がまるでない。住んでいた埼玉の田舎町にはレコード店がなかったし、音楽雑誌なるものに触れる機会も皆無だった。
今でも笑ってしまうのだが、1966年にビートルズが来日し、そのTV中継を観たとき、どれがポールでどれがジョンなのか皆目わからなかった。それほどまでに、ラジオの音だけが情報源のすべてだったのだ。
近所に一学年下の上野クンという友だちがいた。
彼のお父さんはたしかニッポン放送に勤めていて、音楽番組のディレクターを勤めているという話だった。小生のポップス狂いを知った上野クンは、お父さんが自宅に持ち帰っていた試聴用のシングル盤の類いを気前よく小生に頒け与えてくれた。
ペトゥラ・クラークの「恋のダウンタウン」、ダスティ・スプリングフィールドの「この胸のときめきを」、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」「アイ・ソー・ハー・アゲイン」、ホリーズの「バス・ストップ」、ラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティ」...。今でもこれらの唄をソラで歌える(ただしカタカナ英語でだ)のは、この頃これらのシングル盤を擦り切れるまで繰り返し聴いたからだ。1965〜66年頃、中学一年から二年にかけての一時期のことだ。
そうこうするうちに、ポップス以外の音楽も少しずつ耳に入ってくるようになった。おそらく当時のヒット曲のなかに、バッハの楽曲をアレンジしたものがあり(トイズ「ラヴァーズ・コンチェルト」、スウィングル・シンガーズ「恋するガリア」=映画主題歌)があって、その独特の魅力に興味を掻きたてられたのだと思う。中学三年の頃にはすっかりクラシック音楽に魅せられてしまい、AMで聴けるすべての番組をメモを取りながら聴き、それでも飽き足りなくなった小生は、親にねだって「高校入学祝い」を半年前倒しにしてもらって、FMラジオを手に入れ、それを早朝から夜中まで聴き狂った。もちろん詳細なメモを取りながらだ。
高校に進学して間もなくの頃、上野クンのお父上にお目にかかる機会があり、そのときに一枚の小さな青い紙片を手渡された。なんでもオーケストラの演奏会の招待券が手に入ったのだが、「自分は行かないのでキミに差し上げよう」という話だったと思う。どういう経緯からそうなったのか、もはや記憶が定かではないのだが、おそらく小生のクラシックへの傾倒を上野クンがお父上に伝えたのだろう。あるいは、ひょっとして入学祝いという名目だったのかも知れない。
1968年5月3日。
その日は文字どおり小生のその後の人生を変えた。劇的に。運命的に。不可逆的に。
(明日につづく)