(4月24日のつづき)
1993年、初めて訪れたパリでゆかりなくも「ヴィヴィエンヌのギャルリー」に遭遇し、パサージュの魅惑の一端に触れた、という話の締めくくり。
その当時、日本語で読める文献は(たぶん)ひとつもなく、ましてやヴァルター・ベンヤミンが広闊な「パサージュ論」を遺していることなぞ知る由もなかった。
その次にパリを訪れたのは1996年のことだったろうか。ルノワール展の準備で世界行脚(本当に地球を一周した)の一環として晩秋の数日間この街に滞在し、多忙だったはずの日程の合間を縫って、オスマン大通りに入口を構える「パサージュ・ジュフロワ Passage Jouffroy」と、その続きの「パサージュ・ヴェルドー Passage Verdeau」、さらには大通りを挟んで「パサージュ・ジュフロワ」に向かい合う「パサージュ・デ・パノラマ Passage des Panoramas」をそぞろ歩いた。
この三つのパサージュは「ヴィヴィエンヌ」の高雅な趣とは異なり、ぐっと庶民的で気取りがなく、冴えないカフェやサロン・ド・テ、安手の土産物屋などが軒を連ね、古びてはいても現役の商店街として、それなりの活気を呈していた。「ここは中野や阿佐ヶ谷のアーケード街とそんなに違わないな」というのが率直な印象だった。
いささか記憶がぼやけているのだが、このとき「ジュフロワ」の映画専門の古書店でサッシャ・ギトリの古ぼけたスチル写真を見つけ、その少し先の児童書専門店で1920年代の絵本を何冊か手にしたように思う。
満ち足りた気分で最後の訪問地ミュンヘンを経て帰国した小生は、思いもよらない一冊の書物が日本で刊行されていたことを知る。
荻野アンナ
パリ 華のパサージュ物語
日本放送出版協会
1996
外遊の半年も前に刊行されており、しかもその直前に番組になって放映もされたというのだが、迂闊にも小生はまるきり知らずにいた。書店で手にとって、悔しさのあまり地団太を踏んでしまった。これを持参してパリを歩くべきだった、と。
荻野さんの羨ましいのは、パリ大学留学中からこの街に親しみ、持ち前の会話力(彼女は完全なバイリンガルだ)を生かして、番組取材中にパサージュの住人と親しく交遊しているところだ。そこからは単なる「歴史遺産」ではなしに、現在に生きて呼吸する街路のありようがいきいきと浮き彫りにされる。
小生が訪れたばかりのパサージュももちろんだが、本書で紹介されたなかでは、現存最古だという「ギャルリー・ヴェロ=ドダ Galerie Vero-Dodat」の寂れた古風な佇まいに最も心惹かれた。先日もすぐ近くを通ったはずなのに、ここに気付かず通り過ぎたのは返す返すも痛恨事だった。
その後も、私事や公務でこの街を訪れるたびごとに、小生はパサージュ通いを欠かさなかった。ようやく上記の「ヴェロ=ドダ」にも足を踏み入れたし(あまりにささやかな規模に拍子抜けした)、行くたびに高級ブティックが増えファッショナブルになっていく「ギャルリー・ヴィヴィエンヌ」(とその兄弟分の「ギャルリー・コルベール」)の変貌ぶりに眼をみはったりした。
最後にパリを訪れたのは2000年のこと。このときは前年に知り合った若い古書店主セルジュ・プランテュルー(ロシア絵本に詳しく、1997年にパリで展覧会まで催した傑物)が新たに「ギャルリー・ヴィヴィエンヌ」に引っ越したというので、表敬訪問がてら店鋪にお邪魔し、第二次大戦下の豆粒のようなロシア絵本をまとめ買いしたりした。
それからもう八年にもなる。美術館を辞して悠々自適とは名ばかりの、低収入に甘んじる身の上ではおいそれとパリ行きは叶うまいと、はなから再訪を諦めたまま今日に到っている。あの街のことはもう考えまいと自らに言い聞かせてきた。
そんな境遇にある者にとって、この本の登場はあまりにも懐かしく、あまりにも刺激的だった。
鹿島茂
パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡
平凡社
2008
(まだ書きかけ)