今しがた『フィガロの結婚』を観て帰ってきたところだ。
ザルツブルク音楽祭制作
モーツァルト
フィガロの結婚
演出/クラウス・グート
指揮/ロビン・ティッチャーティ
演奏/エイジ・オヴ・エンライトゥンメント管弦楽団
出演/アレックス・エスポージト(フィガロ)、スティーヴン・ガッド(伯爵) ほか
18:00- 東京文化会館大ホール
2006年の「モーツァルト・イヤー」で初演された新演出がそのまま再現されるというのが話題だったが、小生の興味はもうひとつ、古楽器演奏による「フィガロ」の実演に触れるところにもあった。
二年前のザルツブルク初演時にはアルノンクールがウィーン・フィルを振ったというから、耳から聴こえる音はまるで別物だったに決まっている。しかもそのときはダルカンジェロ(フィガロ)、ネトレプコ(スザンナ)、シェーファー(ケルビーノ)ら錚々たるスターが顔を揃えたので、失礼ながら若手の無名歌手(少なくとも小生はひとりも知らない)による今回の上演はひどく見劣りするのは否めない。
で、どうだったか。
まずエイジ・オヴ・エンライトゥンメントの絶妙な響きに魅せられた。とりわけニュアンス豊かな弦の弱音と、そして木管の清々しい音色。モーツァルトの管弦楽法の巧みさが最上の姿で耳に飛び込んでくる。
これがアルノンクールだったなら、強烈なアタッカや峻厳なフォルテが耳を聾する瞬間が頻出するのだろうが、今回のティッチャーティ(弱冠二十五歳!)は到って素直に、平明な音楽の流れに身を任す。シンプル過ぎてコクや深みがなく、個性に乏しい気もしたのだが、その分、オーケストラの自発性が表立って聴こえてきたのだからこれで良しとしよう。
歌手は男性陣(フィガロ、アルマヴィーヴァ伯爵)が声も演技もなかなかサマになっていたほかは、まあ可もなく不可もなくといったところ。肝腎の伯爵夫人にもスザンナにも歌に華がなくて失望した。まあ、これはディスクで古今の名ソプラノを聴き過ぎたせいもあろうが、第三幕などはこれ抜きに乗り切れまい。名歌手不在でもモーツァルトの歌劇はもちろん成立するだろうが、その場合は練り上げたアンサンブルが不可欠。その点でも今回のキャストはいかにも寄せ集めの感が否めず、芸達者の相乗効果は望みようもない。
さてそれでは、肝腎の演出のほうはどうか。
クラウス・グートがこのオペラを軽妙なロココ劇とは捉えず、愛と幻滅と離反の交錯する人間ドラマとして構想したことは明らかである。
したがってアルマヴィーヴァ伯爵も、奥方そっちのけで若いスザンナの尻を追い回す好色な中年男ではなく、深刻に懊悩する「悩める分別盛り」として造型される。会場で頒布されたプログラム冊子には、さもそれが事新しい「発見」であるかのように書かれているが、小生の観たなかでも、たとえばベルリン(旧・東ベルリン)のコーミッシェオーパーのハリー・クプファー演出版で、「苦悩する伯爵」像ははっきり打ち出されていた(小生が観たのは1995年)。ダ・ポンテの台本にも、モーツァルトの音楽にも、そのあたりの機微は丹念に描き込まれているので、今回の解釈は「発見」なんかじゃない。至極まっとうな読みなのである。
グートの創意は、台本にはない「ケルビム」という「だんまり」役を舞台に登場させたことだ。天使のような翼をつけたこの少年(青年?)は、事あるごとに登場人物に背後から忍び寄り、そうっと(あるいは力ずくで)操り人形よろしくその心理と行動を操作しようとする。その姿は劇中の人々の眼には見えないという設定である。グートはどうやらケルビーノの名から連想して、この有翼の天使を考え出したとおぼしいが、宗教図像学の見地からしてこれをケルビム(智天使)と呼ぶのはどう考えてもおかしい。明らかにこの翼ある存在は愛を司る神アモル(クピド)なのであり、複雑に絡み合う男女関係にいちいち介入する有様は、さながらシェイクスピアが『真夏の夜の夢』で活躍させた敏捷な悪戯者パックを彷彿とさせる。
この演出で最も成功していたのは、その大掛かりな(といっても構造は単純だが)セットだった、といったら失礼だろうか。
舞台全体は白っぽい色に塗られた大きな階段室。正面に階段と踊り場がある。下手には窓があり、そこからケルビムや、さまざまな人物が出入りする。基本的にはこれが一貫して用いられ、第三幕のみ、一面に壁で覆われたセットになる。終幕は通常は夜の庭園に設定されるのだろうが、それすらも階段室で済ませてしまう。人物の出入りや動かし方が巧みなせいか、このセットさえあればどんな物語でも語れるのだという気がした。