(4月22日のつづき)
そこはまるで時の止まった廊下さながらだった。
アーチを連ねた硝子天井から仄かな光の差し込むなか、その通路の左右にはコンパートメント状に仕切られた店が軒を連ねる。足元には手のこんだモザイクが嵌め込まれている。
パサージュそのものの構造はしっかり石造りなのだが、店々のショーウィンドウの窓枠や扉は使い込んだ木製で、「今」の時代を感じさせるものは何ひとつない。
これはもうバルザックやベルリオーズの時代――19世紀そのものではないか!
しばらく進んだところで、通路は鈎の手に左へ折れ、ちょうどその場所に位置する店だけが開いていた。
古本屋だった。パサージュの両側が同じひとつの店舗であるらしい。誘われるように店内に入ると、天井まで洋書が(当たり前だ)ぎっしり。概ね大昔の本ばかりのようで、小生のようなフリの客は「お呼びでない」気もしたのだが、それでも何か一冊手に取って購入したように思う。
十五年前の記憶だから、という以上に、もともと夢うつつの状態だったから、すべてが紗のかかったような漠たる情景としてしか思い出せない。こんな場所をモノクロ映画のワンシーンで観たことがあるような気もするのだが、それも定かではない。
とても現実とは思えないまま、歩廊を左に曲がってしばらく行くと、瀟洒な丸天井のかかったホール状の空間に出た。天井はここも硝子張りで、床一面のモザイクには幾何学模様が整然と描かれている。
こうして記憶を手繰り寄せながら書き綴っていても、なんだか現実のことではないような気がする。それほどまでにギャルリー・ヴィヴィエンヌは浮世離れしていて、とても同時代の光景とは思えなかったのだ。
ゆかりなくも個人的な回想に浸ってしまったのは、ほかでもない、こんな魅惑的な一冊と出会ったからである。
鹿島茂
パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡
平凡社
2008
この本を紹介したくて、思わず私的な想い出に耽ってしまった。次回は同書がいかに卓抜にパサージュの不思議を探り当てているかをお伝えしたい。
(次回につづく)