どういうわけか、朝早く(といっても六時過ぎだが)目が醒めてしまう。
気配を察知して、飼い猫たちが台所で騒ぎ出す。仕方ないので起き出して餌をやる。こちらももう眠くないので、ヴェランダへ出て煙草をふかす。昨日の午後からの雨はどうやら上がったが、今日もどんより冴えない曇り空。
昨日訪れた図書館は拙宅からは一時間ほどかかるのだが、地域の中央図書館なので、さすがの充実ぶり。古い書目でなければ大抵の調べものはここで済ませる。
いちばんの目的は連載で取り上げるルノワールとクリムトについての材料(ネタですね)集めだったわけだが、音楽のコーナーで『吉田秀和全集』をみてみようと思い立った。生憎「閉架図書」扱いだったので暫く待たされてしまい、そのとき目の前の書棚に『山田耕筰著作全集』全三巻がふと目に留まった。
手に取ってパラパラ捲っていたら、いくつか驚くような事実が隠されている(というか、小生が知らなかった、というだけのことだが…)ことに気づく。
山田耕筰は1918年のプロコフィエフ訪日の際はすでに渡米していて会うことは叶わず、そのかわり翌1919年の初めにニューヨークで両者は偶然にも遭遇する。そこでふたりの間には若干の口論があり、火花が散ったらしいことが知られる。プロコフィエフの日記にも山田のことが出てきて、その楽曲がクソミソに酷評される。
もっとも山田はNYで親友の舞踊家・伊藤道郎と行動を共にしており、伊藤はロシアのバレエ・ダンサー、アドルフ・ボリム(ボルム)と懇意にしていた。そのボリムを「文無し」プロコフィエフは頼っていたのだから、山田とプロコフィエフがこの街で出会うのは必然だったのだ。
それはともかく、山田が1933年にモスクワを訪れたとき(二度目の訪ソ)プロコフィエフに再会している事実を、これまで迂闊にも気づかなかった。山田の記すところには粉飾や記憶違いがつきものなので、一応その内容を疑ってかかる必要があるのだが、両者はそのときこんな会話を交わしたということになっている。
「セルゲイ!」
「コウサク! 髪はどうした? 何処へ置き忘れて来た?」
「そういう君も禿げたねえ!」
「いや、紐育時代はお互い多毛過ぎたよ。考えて見ると言うことも若かった!」
ホンマカイナ? ともあれ面白過ぎる資料であることは確かなので、これも英訳して倫敦に持参することにした。
今日はこのあと連載の執筆と、それからその山田のエッセイの英訳に取りかかろうと思う。