一週間ほど前、指揮者カレル・アンチェルを偲ぶ一連のエントリーのなかで、晩年の彼がトロントでグレン・グールドと共演した映像をTVで観たときのことを記憶を頼りにこう書いた(
→ここ)。
一週間ほど経ったろうか、朝日新聞に吉田秀和の批評が載った。
手元に全集がないので、正確な表現を確かめられず、申し訳ないが記憶だけで書かせていただくのをお赦しいただきたい。
吉田氏もグールドの生演奏には接しておらず、「動くグールド」の出現に興奮を抑えかねる様子の書きっぷりだった。その演奏姿の奇矯さに触れたあと、吉田氏は彼の演奏スタイルや音楽性がどんなに特異で卓越しているか、余人の理解や介入を許さないかを論じ、「グールドはグールドにしか見えないものをはっきり見据えている」とし、「指揮者のアンチェルにはそれが見えないのだ」と断じたのである。
以上は三十五年以上前に読んだだけの、うろ憶えの記憶に拠る「引用」なので、全然違っていたらご容赦いただきたい。
今日の午前中、たまたま別件の調べもので近隣の図書館を訪れた際、ついでに『吉田秀和全集』を調べてみた。
ありました、ありました、「テレビで見たグレン・グールドの演奏」という文章がそれである(全集第九巻所収:初出=「朝日新聞」1972年8月21日夕刊)。吉田さんに拠れば、この「動くグールド」の映像は1972年8月10日にNHK・TVで放映された。
吉田さんはグールドの映像を「見たと見ないでは決定的な差がある」「百聞は一見にしかず」「二度見る必要はないが、一度は見ておかないとわからないものが、ここにはあったのである」としたうえで、彼がそこで目にしたものを丁寧に、言葉を尽くして隈なく写し取ろうとする。
で、私たちは何を見たか? まず、普通よりかなり低い椅子にかけて、せむしか何かのように背をまるめ、頚を短くして演奏する姿である。その結果、鍵盤が肘よりやや高目になるので、打鍵には肩や上膊の力がほとんど生かされず、前膊と手首からさき、特に目だって平べったくのばされた指の動きに重点がくる。[…]
ところが、ベートーヴェンの『皇帝協奏曲』のような長大な曲の場合となると、進むにつれて彼がしだいに周囲から切り離され、ある世界に深く進入してゆくさまが手にとるようにわかってくる。右手だけを使っている時の彼は、まるで右手の演奏を指揮するかのように、あるいはそこから生まれてくる音をある想像上の空港に着陸させようと誘導したり、あるいはその余韻を掌の中に包みこんでから、改めて解放し大気の中に飛び立たせてやろうとでもするみたいに、右手に沿って左手もいっしょに、さかんにあげたりさげたりする。そのうえ、同じ曲の第二楽章のように荘重な歩みで冥想的な旋律をひく時には、彼は上半身を右から左に輪のようにさかんにゆさぶりながらひくのだが、そうした時に限らず、早い楽句を奏する場合も、たえず、口をくちびるをパッパと動かして、リズムにのってうたっているのが見える。[…]
う~ん、たいへんな文章の力だ。目の前にグールドがたち現れてきそうなほどに。難しい語彙をひとつも使っておらず、言葉を畳みかけながらも表現に無駄が一切ない。
吉田さんは「目の前にいるのが普通の人とは知情意の均衡のずいぶんちがう人間なのではないか」と読者に問い掛けたあと、ついに問題の箇所に差し掛かる。
特にそれは、同じ画面の中に、協奏曲で管弦楽の指揮をしているチェコの名手アンチェルルがきわめて冷静で一点のむだもない棒さばきをみせているので、よけい鮮やかな対照となって、私たちに迫ってくる。
だが、それは対照だけではない。グールドの姿が私たちを強烈にひきつけるのに反し、アンチェルルの、いわゆる「健康な」指揮姿は、ある時間がすぎると、それ以上私たちの注意をつなぐには空虚すぎると見えてくる。「この人の耳にはあれ【傍点付】
が聞こえないのでは?」という疑いがわいてくる。というのも、「あれ」の所在を示すことこそ、グールドの演奏の急所だとわかってくるからだ。
う~ん、惜しいなあ。
「指揮者のアンチェルにはそれが見えないのだ」ではなしに、「この人の耳にはあれが聞こえないのでは?」だった。でも、まあ当たらずといえども遠からずで、だいたいのところ合致していたので安心した。
三十六年前の記憶の確かさと不確かさをめぐる一幕であった。