昨日はずっと雨模様だったので、外出を控えて拙文の英訳に精を出した。
お蔭で一気に七十行ほど進捗して、大田黒元雄がプロコフィエフに遭遇する直前まで漕ぎつけた。この調子だと、今週末にはどうやら大団円に辿りつきそう。ああ長かったなあ。
うって変わって、今日はぽかぽか春の陽気。
東京での用事が思いのほか早く片付いたので、そのまま大江戸線に飛び乗り、築地市場前で下車。急ぎ足で朝日新聞社本社ビルを駆け抜けて、裏手にある「浜離宮ホール」へ。当日券があるか確かめていないのでちょっと心配だ。
実はこんな演奏会があるのを、つい昨日、情報誌をパラパラ捲っていて気づいた。思わずわが目を疑うような、凝りに凝った催しなのである。
井上二葉 ピアノ独奏会 2008
歿後50年を迎えるフロラン・シュミットをめぐって
4月11日(金) 19:00- 浜離宮朝日ホール
フローラン・シュミット Florent Schmitt (1870-1958)はドビュッシー(1862生)とラヴェル(1875生)の二大巨匠に挟まれて「ワリを食った」世代に属するフランスの作曲家のひとりである。際立った個性を備えたルーセルはともかくとして、シャルル・ケックランも、ギー・ロパルツも、新世代なのか旧世代なのかはっきりせず、なんとなく影が薄い印象が付き纏う。このシュミットについても、バレエ音楽「サロメの悲劇」と宗教音楽「詩篇四十七」が比較的知られている程度で、百数十曲に及ぶ膨大な楽曲がほとんど聴かれぬまま埋もれている。
巴里やストラスブールならいざ知らず、ここ東京でフローラン・シュミットに献じる演奏会が催されるなんて、ちょっと信じられない思いだ。そもそも今年が歿後五十年だとすら、まるで知らなんだ。小生にとってもこれは間違いなく二度とない機会だろう。こんな稀有な催しを考えついたフランス近代音楽のスペシャリスト、井上二葉さんに満腔の感謝を捧げねばならぬ。
当日券なのに五列目のど真中という絶好の席。おもむろにプログラム冊子を開いて溜息。本当にこれは凝りに凝ったリサイタルなのだ。
ギュスターヴ・サマズイユ: 三つの小インヴェンション (1902)
フローラン・シュミット: 二つの小品 作品57 (1911)
フローラン・シュミット: 「親密な音楽」作品16、29 より
僧院~葉っぱの唄~弔鐘~航跡~そよ風 (1898、1901、1903、1904、1902)
~休憩~
ガブリエル・フォーレ:
前奏曲集 作品103 より 第三、第四番 (1909-10)
夜想曲 第十二番 作品107 (1915)
舟歌 第十三番 作品116 (1921)
フローラン・シュミット: 七人の乙女の舟歌 作品87-2 (1936)
フローラン・シュミット: ガブリエル・フォーレの名に因んで 作品72-2 (1922)
クロード・ドビュッシー: エレジー (1915)、赤々と燃える炭火に映える夕 (1917)
フローラン・シュミット: そして牧神は月明かりの麦畑の奥深くで肘をつく 作品70-1 (1920)
どうです、これは素晴らしい聴きものだ。フローラン・シュミットが十曲も聴けるし、その師にあたるフォーレの数曲を除くと、聴き憶えのある音楽はひとつもない。
井上さんの演奏はこれまで「フォーレ協会」の例会で何度か接したことはあったけれど、リサイタルは初めてだ。相当なご高齢(失礼!)ながら、どうしてどうして、お姿もピアノ演奏も矍鑠たるもの、ベーゼンドルファーから繊細でニュアンス豊かな響きをふんだんに引き出す。
シュミットの楽曲は、古典的な佇まいからポスト・ドビュッシーの大胆な和声を駆使したものまで、作曲年代に応じてさまざまだが、とりわけ恩師フォーレの音名を織り込んだ「ガブリエル・フォーレの名に因んで」と、先輩ドビュッシーの死を悼んだ「そして牧神は月明かりの…」の二曲が味わい深い佳曲であった。
これらの曲の成立については、当ブログでも昨秋ちょっと触れたことがある。
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「オマージュとしての音楽」
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「ドビュッシーの墓に捧ぐ」
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「『ルヴュ・ミュジカル』誌の見識」
→
「海辺の墓地」
よもやこの二曲を生で聴けるとは思ってもみなかったなあ。
今夜の演目ではこのほかフォーレの四曲がそのピアノ音楽の芳醇なエッセンスを余すところなく伝えて見事だったし、ドビュッシーの珍しい最晩年の「遺作」(いずれも近年に発掘)が聴けたのも嬉しい体験。短いながら、なんだか胸に迫る音楽なのだ。これらの楽曲とシュミットの「オマージュ」曲との輻輳、すなわち、絡み合い、響き合いが、間違いなく今日のリサイタルの白眉だったと思う。
アンコールで奏された二曲(フォーレの「八つの小品」作品84‐2 とフローラン・シュミットの「そよ風」)を含め、間然とするところのないプログラムに感服し、久しぶりに近代フランスのピアノ音楽を満喫した。
こんな夕べが毎週あったらどんなに豊かなことだろう! まあ、わが東京はいたって貧しい都会だから、CDでひとり孤独に空想音楽会を愉しむに如くはないのだが…。