1968年8月20日、祖国が存亡の危機に瀕しようとするそのとき、単身演奏旅行中の彼は遙か遠方のアメリカ合衆国にいた。
三日前の17日にはタングルウッドの夏の音楽祭でボストン交響楽団を指揮し、得意のショスタコーヴィチ(第一)とドヴォルザーク(第八)を披露した。ソ連軍侵攻のニュースを彼はどの時点で聞いたのかは定かでないが、三日後の23日にクリーヴランド管弦楽団に客演した際は詳しい(そして錯綜する)情報を得ていたはずで、おそらく心労のあまり演奏に専念できなかったのではないか。この日のプログラムはピエール・フルニエを独奏者に迎えたドヴォルザークのチェロ協奏曲と、六日前と同じショスタコーヴィチの第一交響曲。皮肉にもチェコとソ連の音楽が仲良く肩を並べていた。
翌24日もクリーヴランド管弦楽団を振って、スメタナの「わが祖国」から「モルダウ」、チャイコフスキーのピアノ協奏曲(独奏/バイロン・ジャニス)、ドヴォルザークの第八交響曲という、これまた敵対する二国の音楽が並んだ。
そのあと、彼のスケジュールは11月10日までずっと空白のままだ。夏のヴァカンスを楽しむ余裕はない。愛する祖国がようやく手にしつつあった自由の夢は今や風前の灯だ。彼を常任指揮者に戴き、名コンビとして幾多の名演を残してきたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーの顔がひとり、またひとりと脳裏に浮かんでは消えたのではないか。
そして彼はついに亡命を決意した。以前から誘いのあったカナダのトロント交響楽団の常任指揮者の地位を、前任者・小澤征爾から引き継ぐことにしたのである。
彼の人生は同時代のどんな指揮者にも増して波乱に満ちていた。その過去には輝かしい栄光とともに、思い出すのも辛い悲惨な出来事があった。
青年時代はすこぶる順風満帆だった。プラハで名指揮者ヴァーツラフ・タリフの薫陶を受け、新音楽の旗手、アロイス・ハーバの四分音音楽に深く帰依した。同時代音楽の擁護者へルマン・シェルヘンにも認められ、彼の指揮者としての実力はほどなく国外にも喧伝された。各地で催される国際現代音楽協会(ISCM)音楽祭の常連指揮者として、彼の姿はウィーンで、そしてバルセロナでも目撃された。
そして忌まわしい時代がやってくる。
ナチスに占領された祖国にユダヤ人である彼の住む場所はなかった。あらゆる公職から追放され、自由を奪われた彼とその家族は1942年11月、テレジンの強制収容所に連行された。この収容所は表向きはユダヤ人に自由な文化活動を許しているというふれこみであり、彼の指揮のもとでオーケストラが結成され、活発に演奏活動が行われている…という趣旨の宣伝映画までが制作された。二年後、彼は家族とともに別の収容所へと移送された。その場所の名はアウシュヴィッツ。ここでも彼は辛くも生き延びたが、家族はひとり残らず命を絶たれたのである。
悪夢のような数年を経て、彼は再びプラハの音楽界に返り咲く。1950年には共産政権を嫌って国外に逃れたクーベリックの後を受けて、名門チェコ・フィルハーモニーの常任指揮者の地位に就いた。それからの十数年間は彼にとって最も稔り多い時期だったろう。各地の音楽祭に手兵を率いて参加し、世界を股にかけて演奏旅行を繰り広げた(1959年には訪日もした)。LP録音にも積極的で、スメタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、マルティヌーなど自国の音楽、モーツァルトからブラームスに到るドイツ古典もの、得意としたマーラーの交響曲、さらにはストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなど同時代音楽まで、その広大なレパートリーはあらかた彼とチェコ・フィルによって録音され、世界じゅうで親しまれた。
1968年、六十歳を迎えた彼を見舞ったのは、ナチス占領時代に優るとも劣らぬもうひとつの悲劇だった。彼は家族同様に愛したオーケストラから残酷にも引き離され、遠い異郷の地で慣れない外国語を操りながら、カナダの(かなり)拙劣な管弦楽団を相手に悪戦を強いられたのである。
彼の名はカレル・アンチェル。今日はその彼の百回目の誕生日なのである。