物心つく、という言葉が何を指すのか明確でないが、もしもそれを「自分をとりまく社会や世界に広く関心を向け始める」という意味に解するならば、中学から高校にかけての一時期がまさにそうした段階だったと今にして思う。
四十年前の1968年、小生は高校一年生になった。
世情は騒然としていた。ヴェトナム戦争はいよいよ泥沼化し、米国に追随する日本も否応なくそこに加担していた。大学という大学で学園紛争が起こり、授業はおろか構内に立ち入ることもままならぬ状況が恒常化していた。ワシントンでもパリでもロンドンでも、そして東京においても、既存の大人社会に対する不信感が膨れ上がり、果敢な異議申立ての行動が頻発していた。
埼玉の田舎でひたすら芸術のみに憧れるような初心な少年にも、確実に時代の波は押し寄せていたとみえる。新聞やTVで連日のように報道されるチェコスロヴァキアの動静から目が離せなくなった。
1月/ドゥプチェク(当時の表記ではドプチェク)が共産党第一書記に選出。
4月/「行動綱領」が採択され、従来と異なる新しい社会主義モデルが提示された。そこでは過去に粛清された者たちの名誉回復、西側諸国との交流促進と市場経済の部分的導入、さらには言論・芸術活動の自由が明記されていた。
6月/代表的な知識人・文化人がこぞって「二千語宣言」(その全文は
→ここ)に署名。「行動綱領」の内容を再確認するとともに、いわゆる「人間の顔をした」社会主義を標榜することを宣言した。
十二年前にハンガリーで同種の動きがあったことを、1952年生まれの高校生は知らなかった。だからこのチェコの民主化の動きは強大なソ連に抗する前代未聞の出来事として受け取められ、事の当否や背景はよくわからぬながら、「何か素晴らしいことが起こりつつある」という予感と共鳴を抱きながら、事態の推移を見守っていたのだと思う。「二千語宣言」の署名者にオリンピック金メダリストのチャスラフスカやザトペックの名があることも、なんだか好もしく思えたものだ。
そして8月20日夜がやってくる。ソ連軍(名目上はワルシャワ条約機構軍)の戦車二千台が一斉にチェコスロヴァキア国境を突破し、各地を制圧しながら一路プラハを目指す。
この圧倒的な軍事力を前に、チェコの民主化勢力はひとたまりもない。それでも必死の抵抗を試みるが、所詮勝ち目はなかった。他国の自決権を踏みにじるソ連の強権的なやり方に、西側世界は猛反発するが、事態を変えることはままならなかった。結局、民主化の推進者たるドゥプチェクは翌年4月に辞任し、その後は親ソ政権が厳しい言論弾圧と世論の締めつけを図った。この過程で実に三十万にも及ぶチェコスロヴァキア人が故国を離れざるを得なかった。
「物心ついた」ばかりの少年にとって、これがトラウマに近い原体験となったことは間違いない。これが私たちの生まれた時代、20世紀なのだ、と思い知った。
(明日につづく)