一昨日、名残の花見と「オーケストラ・ニッポニカ」の定期演奏会に出向く前に、ちょっとだけ御茶ノ水で途中下車し、例に拠って中古盤を少し漁った。ほんの二十分位だったのだが、たっぷり収穫があった。どなたかが手放されたのだろうか、これまで買い逃がしていたプロコフィエフのCDがまとまって棚にあり、あらかた手に入ってしまったのだ。
今日は原稿執筆の傍ら、それらを順番に聴いていく。
プロコフィエフ:
バレエ音楽『シンデレラ』全曲
ミハイル・ユロフスキー指揮 ケルンWDR交響楽団
1999年1月4-6日、4月20-30日、ケルン、フィルハーモニー
cpo 999 610-2 (2000)
『シンデレラ』はつい先日、ロジェストヴェンスキーの歴史的名盤での圧倒的名演やアンセルメの抜粋盤の洗練された解釈に唸ってしまったばかりなのだが、このユロフスキーの全曲も素晴らしいではないか。誇張を排し、至極まっとうに音楽を進めて行くのだが、リズムの精妙さ、バランス感覚の確かさは凡百の指揮者にはできない芸当だ。繰り返し愛聴することになろう、新たなスタンダードの登場だ。
プロコフィエフ:
舞台音楽『エヴゲニー・オネーギン』(エドワード・ダウンズ編)
映画音楽『スペードの女王』(ミハイル・ユロフスキー編)
ミハイル・ユロフスキー指揮 ベルリン放送交響楽団、RIAS室内合唱団 ほか
2003年3、9月、2004年1-2月、ベルリン、イェズス・クリストゥス聖堂
Capriccio 67 149/50 (2005)
先だって『ハムレット』『ボリス・ゴドゥノフ』という知られざる劇音楽で秀演を聴かせたユロフスキーの、それに続く「付随音楽」連続録音の一環。今回もユロフスキーとプロコフィエフとの相性の良さを天下に知らしめる優れた演奏だ。
『エヴゲニー・オネーギン』はプーシキン百年祭の1936年、タイーロフのカーメルヌィ劇場の依頼で作曲されながら、同種の他の上演と同様、当局の介入で上演不可お蔵入りとなった音楽(すでに編曲者自身のCDあり)。後者はミハイル・ロンムの未完フィルムのための音楽。密やかな緊迫感に満ち、しかも途中ちらと、のちに第五交響曲に転用されるモティーフの断片が聴こえるのが興趣をそそる。これまで全く聴く機会がなく、たいそう貴重な録音だ。
いずれにせよ、この頃とんと見かけなくなった盤なので、見つかってとても嬉しい。
"The Unknown Prokofiev"
プロコフィエフ:
チェロ協奏曲 第一番 (1935ー38)
チェロ小協奏曲 (遺作)
チェロ/アレクサンドル・イワーシキン
ワレリー・ポリャンスキー指揮 ロシア国立交響楽団
2000年2月24-25日、1999年3月22、23日、モスクワ、モスフィリム新スタジオ
Chandos CHAN 9890 (2001)
確かにこれは「知られざる」プロコフィエフだ。第一チェロ協奏曲はこれまで不当にないがしろにされ、録音は大昔のシュタルケル盤(カット多数)だけしか存在しなかった。たしかに地味な、一聴するとなんだか冴えない音楽のようだが、じっくり聴いてみると、やはり深く味わうべき佳曲。
後者の小協奏曲といえば、作曲者の歿後、ロストロポーヴィチが完成に尽力し、カバレフスキーが補筆したヴァージョンが知られるが、今回のはそれとは別物。研究家のヴラジーミル・ブロークがプロコフィエフの草稿から編曲し直し、カデンツァはアリフレート・シュニトケが新たに書き下ろした。本演奏はこのヴァージョンによる初録音なのだという。
イワーシキンはかつてロストロポーヴィチ門下生だった経歴をもつが、芸風は師とはおよそ対照的。どちらかというと線の細いチェロで、対象にのめり込むことを好まず、クールで知的なアプローチを標榜する。これは彼の奏するプロコフィエフの「交響協奏曲」のCDでも感じたのだが、まるで別の曲を聴く思いがした。指揮者ポリャンスキーのアプローチもそれに沿っていて、冷静さを崩さない。
プロコフィエフ:
映画音楽『イワン雷帝』作品116(全曲)
「知られざる少年のバラード」作品93
ワレリー・ポリャンスキー指揮
ロシア国立交響合唱団、ロシア国立交響楽団 ほか
2003年1月10-14日、モスクワ音楽院大ホール
Chandos CHAN 10153(2) (2003)
プロコフィエフとエイゼンシュテインとの名高いコラボレーションである『アレクサンドル・ネフスキー』と『イワン雷帝』は、映像とともに視聴すると効果たっぷりで素晴らしいのに、音楽だけを聴くと、繰り返しばかり多く、聴き通すのがいささか苦痛である。とりわけ前者がカンタータ化された楽曲は、はっきり言って霊感に乏しい凡作だとさえ思う。
ところがどうだろう、本CDの演奏を耳にして、考えが大きく変わった。ここで聴かれるのは作曲者の歿後に編まれた演奏会用のカンタータ・ヴァージョンではなく、映画で流れるすべての楽曲、それもプロコフィエフが作曲したのではない、ロシア正教の古聖歌(礼拝や儀式の場面で流れた)もすべて収録した真の完全版『イワン雷帝』なのである。こうして一連の流れを聴くと、プロコフィエフがそれらの聖歌と接続して自分の音楽が流れることを充分に意識して作曲したことまで想像される。さらには、プロコフィエフがそれら古の聖歌をどう捉えていたのかまで知りたくなる。
それにしても、プロコフィエフが創意工夫の限りを尽くして、映画音楽をオペラの域に到達させようと努めているのが、ひしひしと感じられる。彼は本気だったのだ。エイゼンシュテインとともに高みを目指したのだ。そのことを初めて痛感させられた。ポリャンスキーの演奏は素晴らしい。とりわけ合唱の威力が凄い。これは必携の名盤なのではないか。
二枚目の後半にフィルアップとして入っている「反ナチ・プロパガンダ」カンタータ「知られざる少年のバラード」も、たいへんな秀演。ここでも合唱の威力を思い知らされる。禍々しい表現力では昔聴いたロジェストヴェンスキー盤(英Melodiya)に一日の長があるかもしれないが、こちらも完成度はきわめて高い。小生は戦時下の宣伝音楽であるにもかかわらず、この「知られざる」カンタータをこよなく愛するものだ。
(追記)
というわけで、延々とプロコフィエフに浸りきるうち、いつしか注文原稿「ロシア・アヴァンギャルドと絵本」も仕上がった。難儀した割りに、どうということのない常套的な内容になってしまった。まあ、「絵本事典」という大きな全体のなかのコラムなのだから、これでいいのかもしれないが。とにかく終わってホッとする。
今月はこのあと、「旅するアート」の連載を二本書き溜めて、拙文英訳の残りニ頁を仕上げる。そうすれば晴れて、倫敦! 倫敦! である。