ヘルベルト・フォン・カラヤンの百回目の誕生日が巡ってきた。カラヤンがマキノ雅弘と同い年なのか、と思うと、なんだか不思議な感慨を禁じえない。
小生が音楽を聴きだした1960年代半ば過ぎ、カラヤンはすでに「帝王」の名をほしいままにしており、手兵ベルリン・フィルを率いて続々と繰り出される新譜LPは、どれもその曲の決定盤であるかのごとき評判をとっていた。
カラヤンのレパートリーは途方もなく広く、バッハ、ヘンデルから新ウィーン楽派に至るヨーロッパ音楽のほとんどすべてを手中に収め、しかもモンテヴェルディからドビュッシーまでの主だったオペラを悉く諳んじているという恐るべき人物であった。
懐具合の乏しい高校生はなかなかLPレコードを買うことができず、もっぱらラジオや音楽資料室で親しむほか手がなかったのだが、それでも当時しつこく繰り返し聴いたプロコフィエフの第五交響曲やショスタコーヴィチの「第十」(作曲家が大絶賛したという)、あるいはロストロポーヴィチと競演したドヴォルザークのチェロ協奏曲の途轍もない演奏などは、隅々まで思い出すことができる。シベリウスのいくつかの交響曲(最後まで全曲は揃わなかった)、ドビュッシーの「海」の流麗壮大な演奏、他の誰とも違う独特の「春の祭典」(作曲家の悪評を蒙ったという)もよく聴き込んだものだ。「カヴァレリア・ルスティカーナ」などオペラの間奏曲ばかり集めた、唖然とするほど甘美なアルバムもあったなあ。そう、カラヤンは独墺音楽のみならず、ロシア・東欧・北欧・フランス・イタリア音楽をも得意にしていたのだ。
高校三年になったばかりの1970年5月、カラヤン&ベルリン・フィルは大阪万博に参加すべく、満を持して四年ぶりに来日した。このときの公演曲目がカラヤンという指揮者のヴァーサタイルな資質とレパートリーをよく示していると思うので、煩を厭わず書き写しておこう。
5月16日(土)
ブラームス: 交響曲 第三番+第二番
5月17日(日)
オネゲル: 交響曲 第三番+ドヴォルザーク: 交響曲 第八番
5月20日(水)
シューマン: 交響曲 第四番+R・シュトラウス: 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
5月21日(木)
ベルリオーズ: 幻想交響曲+ラヴェル: 亡き王女のためのパヴァーヌ+組曲「ダフニスとクロエ」 第二番
どうです、素晴らしいプログラムでしょう!
ロシアものが欠けているのが残念だが、どれも彼が自家薬篭中のものとした音楽ばかりで、どの日のプロを聴きに行っても、安心して身を委ねることができそうだ。
ベートーヴェンの交響曲が一切省かれているのは、大阪で纏めてチクルスをやるためであろう。1970年はベートーヴェンの生誕二百周年にも当たっていたのだ。
今の小生だったら万難を排してでも四つ全部を聴くだろうが、乏しい小遣いをやりくりする高校生の身ゆえ、どれか一日だけ行こうと心に決めた。これだって、清水の舞台からダイヴする思いがしたものだ。チケット発売日、始発のバスと電車をはるばる埼玉から乗り継いで、早朝から日比谷の日生劇場に並んだ(演奏会場は東京文化会館なのに、なぜか日生劇場が勧進元だったのだ)。凍えるほど寒い朝だったと記憶している。
列に並びながらもさんざん迷った。いったいどの日を聴けば気が済むのだろう。
ようやく順番が回ってきたとき、幸運なことにどの日もまだ最安席が売れ残っていた。ついに意を決した小生は「21日のD席を一枚!」と震える声で叫んでいた。初めてのカラヤン&ベルリン・フィルで、こともあろうにオール・フランス・プロを聴こうというのだ。われながら相当な臍曲がりだったのだと思う。
さあ、それで当日の演奏会は果たしてどうだったのか。
それについては「わが生涯の演奏会ベスト40」(そういうリストがあるのです)のひとつとして、いずれ詳述する心づもりなので、ここでは敢えてひとこと「うちのめされた」とだけ記しておこう。その一箇月前に聴いたパリ管弦楽団なんか及びもつかない、凄い演奏だったのである。