この五月に渡英して、倫敦のプロコフィエフ財団を訪れる計画を立てた。
昨年十一月、全く信じられないような偶然から、ここの研究誌 "Three Oranges" に寄稿するようになった事の次第は当ブログでも何度か話題にしてきたが、その掲載誌がいよいよこの五月に刊行のはこびとなる。しかも、それと相前後して「プロコフィエフ・スタディ・デイ」なる会合が催され、欧米各地のプロコフィエフ研究者が倫敦に会して、研究成果の一端を披瀝するのだという。小生は確たる知識も専門ももたぬ、一介の音楽好きにすぎないのだが、それでもプロコフィエフの音楽と生涯に寄せる関心は人一倍もち続けてきたわけで、このような折角の機会を逃がすべきでないと考えるに到った。ひょっとして、そこで開陳される議論がまるで小生に歯が立たず、猫に小判、豚に真珠と相成るかもしれないが、それでも構わない、と思っている。
ここには「プロコフィエフ・アーカイヴ」が設けられてあり、リーナ未亡人が生涯かけて守り通したプロコフィエフの膨大な遺品を中心に、目も眩むような貴重な資料が収蔵されているという。その一端に触れることができれば本望である。
財団の方々とはひたすらメールの遣り取りだけで、一度もお目にかかっていない。どこの馬の骨かもわからぬ得体の知れないアマチュアに、論考執筆の機会を与えた彼らの勇断と厚情とに対して、ぜひ直接お礼を申し上げたい──これが今回の倫敦訪問の最大の目的である。
そんなわけで、このところ暇さえあればプロコフィエフを聴いている。今日も原稿執筆の傍ら、ずっとCDをかけ続けていた。
プロコフィエフ:
バレエ音楽「シンデレラ」全曲
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮
モスクワ放送交響楽団
1965年、モスクワ
BMG Melodiya 74321 53458 2 (1998)
高校生の時分、このバレエ初の全曲盤であるロジェストヴェンスキーのLP三枚組が「新世界レコード」レーベルから出たときのことはよく憶えている。部分的にはラジオで聴いたりしているはずだが、どうにも音楽がまろやかで柔和すぎて、一向に馴染めなかった。晩年のプロコフィエフ特有の甘やかな優美さが好きになれなかったし、その「わかり易さ」「口あたりの良さ」はスターリン体制への迎合としか思えなかったのだ。バレエ作曲家としてのプロコフィエフは『ロミオとジュリエット』でお仕舞いだな、などと生意気な感想を抱いたものだ。
一言でいうなら、『シンデレラ』は、その次の(彼の最後の)バレエ『石の花』とともに、小生が最も苦手とする類いの音楽だ。そう信じたまま、実演に接する機会もないまま四十年近くが過ぎ去った。
それがどうだろう。今こうして全曲を繰り返し聴いてみると、その旋律とリズムの発明性において、オーケストレーションの繊細な魅力において、『シンデレラ』は前作『ロミオとジュリエット』に些かもひけをとらぬばかりか、ある種の巨匠的な威厳や落ち着きまで加わって、聴き手を惹きつけ片時も離さない。
ロジェストヴェンスキーの指揮の素晴らしさはどうだ! すべての楽曲がまるで生き物めいて動き出すのには驚嘆するほかない。ダンサブルな雰囲気が全曲に横溢するのも素晴らしい。さすがにボリショイ劇場のピットで鍛えた経験がものを言うのだろう。この決定的名演を聴いてしまうと、架蔵する他の、例えばネーメ・ヤルヴィの組曲盤などは、表面づらだけ整えた綺麗事としか思えなくなる。
こうなったら世評の高いアンドレ・プレヴィン盤や、近年のユロフスキー盤などの全曲演奏もぜひ聴いてみなければなるまい。
今日はこの演奏ばかりをひたすら聴いた。
(追記)
夕食後はずっと十年前の拙稿「ニジンスキーを観た日本人たち」の英訳。島崎藤村の『ダフニス』鑑賞記が訳し辛くて往生していたが、それもなんとか切り抜け、あともう少しで「第二部」が終わる。残りはいよいよ「第三部」の大田黒元雄セクション。ここが何より肝腎なので、心してかからねば。