この本は東京への往還に持ち歩くにはいささか重たすぎる。
いや、単に物理的な重量ではなく、内容の重たさの故にだ。手に汗握るスリリングでサスペンスフルな物語なのだが、読み進むにつれ、のしかかるような事実の重みに思わずめげそうになる。
小倉英敬 『メキシコ時代のトロツキー 1937‐1940』 新泉社、2007
物語の結末は誰しも知るとおり、スターリンの送り込んだ刺客によるトロツキーの惨殺だ。事の顛末のあらましは、実話に依拠したジョゼフ・ロージー監督の問題作『暗殺者のメロディ』(1972)を観て、だいたいのところは知っている。トロツキーをリチャード・バートン、刺客をアラン・ドロンが演じた有名な映画だ。もう細部はあらかた忘れてしまったが、ドロンの演じた暗殺者は任務の重大さと、身近に接したトロツキーの人間的魅力の狭間で、正気を失うほどに追い詰められていく、というストーリーだったと記憶する。
小生が知っているのはこの程度までで、暗殺に至る経緯はどうだったのか、そもそもトロツキーがはるばるメキシコくんだりまで亡命してきた顛末については、ほとんどなんの知識ももっていなかった。いつかきちんと調べてみようと思っていたのだが、本書はそうした無知な読者の蒙を大いに啓いてくれる有益な書物である。
1929年に国外追放されたトロツキーに、終の棲家はなかった。トルコへ、フランスへ、そしてノルウェーへ。行く先々で危険人物視され、国外追放の憂き目を見た挙句、トロツキーははるか彼方なるメキシコを目指す。地球上でメキシコ政府だけがこの不世出の革命家の受け入れを決断したのである。
本書の素晴らしいのは、メキシコという国の特異な成り立ちや、そこでの社会主義勢力の消長を実に丹念に跡づけていることだ。政変が相次ぎ、左翼各派が四分五裂して争う錯綜した政治情勢を、著者はまるで外科医のような鮮やかな手さばきで解析してみせる。なるほど、このような複雑怪奇な状況のただなかに、トロツキーは足を踏み入れたのか、とはじめて合点がいった。
四年間にわたるトロツキーのメキシコ時代は話題に事欠かない。画家ディエゴ・リベーラが差し伸べた力強い援助の手。その妻フリーダ・カーロとトロツキーの短く激しい恋愛。哲学者デューイがニューヨークで主宰した「反・モスクワ裁判」と、トロツキー側の対応。そして、革命家を取り巻く支援者たちの人間模様。
何より興味深かったのは、1938年春から夏にかけてのアンドレ・ブルトンのメキシコ訪問と、そこで実現したトロツキーとの対話である。両者の政治的立場は決して同じではなかったが、それでもスターリン政権の許しがたい非人間性については、ふたりの見解は全き一致をみたようなのである。両者の共同執筆になる宣言「独立革命芸術のために」から引こう。
ソ連邦は全体主義的政権を通じて、またソ連邦が他国の中で意のままに支配している、いわゆる文化組織を通じて、全世界にあらゆる精神的価値のあるものに敵対する深い闇をおし拡げた。そして、知識人と芸術家に変装した者どもは、その泥と血の暗闇の中にどっぷりとつかり、卑屈を自分の本分と心得、金のために嘘をつくことを習慣とし、罪を言い逃れることを限りない喜びとしている。スターリニズム公認の芸術は歴史上類のないあくどさで、彼らの欲得づくの職業の見せかけをよくしようとする意図を、鏡のように映し出している。
ブルトンとトロツキーは、もうこの時点でそこまで見通していたのだ。悲しい哉、このふたりの共同宣言(ブルトンとリベーラの名のもとに公表された)は、当時ほとんどなんの反響も呼び起こすことができなかったのだが。
(まだ書きかけ)