風邪をこじらせていた家人がだいぶ恢復したというので、今日は東京まで外出。今度の週末で終わってしまうというので、前売券(千五百円×二枚)を無駄にしてはならじとテアトル銀座へと駆けつける。窓口の掲示を料金表を見ると、五十歳以上の夫婦者はふたりで二千円だという。わざわざ前売を買っておいて千円損したわい。
とりあえず座席を指定して、上映開始の一時四十分までまだ小一時間あるので同じ建物の地下のイタリア料理店で軽い昼食。
マノエル・デ・オリヴェイラ監督作品
夜顔 2006年
ミシェル・ピコリ+ビュル・オジエ
邦題の『夜顔』とはこの作品がルイス・ブニュエル監督作品『昼顔』の続編(というか後日談)というところからつけられたとおぼしいが、原題 Belle Toujours にはそんな意味はないと思う。
「昼顔」は Belle-de-Jour(昼の美女)といい、その反語の Belle-de-Nuit(夜の美女)は「おしろいばな」、転じて所謂「夜の女」を指すと手許の仏和辞典にある。ケッセルの小説(そしてブニュエルの映画)のヒロインを「昼顔」と呼ぶのは、「夜の女」ならぬ「昼の女」なのだという含意が篭められていたわけだが、本作のタイトルはそれを踏まえながら Belle Toujours すなわち「いつもながらの美女」だというわけで、その捻ったニュアンスの妙は邦題には生かされていない。
そんな詮索はともかく、オリヴェイラ監督のこの近作はさらりと撮られているようにみえて、各ショットの完成度は実に揺るぎがなく、初めから終わりまで溜息のつき通し。九十七歳の監督の演出力も凄いが、八十一歳のミシェル・ピコリの悠然たる演技もまた凄いものだ。
『昼顔』の三十八年後に同じ男女がパリで再会する、という設定なのだが、カトリーヌ・ドヌーヴが出演を肯じなかったのでビュル・オジエが代わりを演ずることになった由。ドヌーヴで観てみたかった気持ちは否定できないが、映画そのものの骨子はそのことで微動だにしない。
冒頭でいきなりオーケストラの演奏会が映し出され、ドヴォルザークの第八交響曲の終楽章が延々と流される(ローレンス・フォスター指揮 グルベンキアン財団管弦楽団)。古めかしい演奏会場だが、実はこれ、普段はオペラとオペレッタの常打小屋であるサル・ファヴァール(オペラ=コミック座)とおぼしい。そのあと、パリ市街を俯瞰で捉えた映像が何度もインサートされるが、そのたびごとに、同じ交響曲の第三楽章が朗々と流される。
野趣と覇気に充ちたドヴォルザークの楽曲は、老人同士の冷厳で秘めやかな再会劇にはまるでミスマッチのはずだが、そうとばかり思えなくなるのはオリヴェイラ監督の深謀遠慮のなせる業か。いつしか「これでいいのだ」という気になってくるから不思議だ。現地ロケで撮影された古色蒼然たるパリの街並や鄙びたホテルのロビーなど、すべての要素が響き合って、絶妙というほかない渋いトーンを醸し出す。
これからご覧になる方のために、驚くべきエンディングについては語らずにおく。ブニュエルに優るとも劣らぬ強度と衝撃力だ、とだけ記しておこう。