葦の髄から天井を覗き、重箱の隅をつついてばかりいる小生のような人間からみると、軽やかなフットワークでモスクワへ、サンクト・ペテルブルグへと研究の網を張り巡らす太田丈太郎さんはまことに頼もしくも羨ましい存在だ。
その太田さんが最近の論考を送って下さった。氏の所属される「来日ロシア人研究会」の会報『異郷』の最新号である。所収の論考は題して「レニングラードの『織田信長』」。先月、神戸で催された研究会で発表されたものと同内容と思われるが、小生の手元には同じ標題の「ロング・ヴァージョン」もメールでお送りいただいてある。ちょうど小生が「プロコフィエフ騒動」で身動きがとれない時期だったので、ご紹介がすっかり遅れてしまったが、これはきわめて示唆に富む刺激的な論文である。
きわめて多岐にわたる内容なので、手短な要約には馴染まないが、日本演劇史上に名高い市川左団次一座の訪ソ歌舞伎興行(1928年8月)の実現にいたる過程を照らし出す新知見を含んでおり、優に一冊の書物になりうる研究の中間報告と呼ぶことができよう。
歌舞伎興行から一年半ほど遡る1927年1月、レニングラードのアレクサンドリンスキー劇場(国立アカデミー・ドラマ劇場)で『織田信長』(!)なる芝居が上演された。演出はセルゲイ・ラードロフ。後年プロコフィエフのバレエ『ロミオとジュリエット』のシナリオを提供することになる人物である。太田氏によれば、この芝居は岡本綺堂が左団次のために書いた戯曲『増補信長記』(1915)の翻訳(あるいは翻案)であり、露語訳を手がけたのは高名な日本学者ニコライ・コンラッド(コーンラド)その人なのだという。
コンラッドは同年6月から10月にかけて来日しており、留学したまま日本に留まっていた民俗学者ニコライ・ネフスキーに帰国を慫慂したほか、日本の同時代演劇に触れた形跡もあるのだという。太田氏はこのコンラッド来日と、一年後の歌舞伎訪ソとの間になんらかの関係があるのではないかと推測する。
従来の通説では1927年11月の十月革命十周年式典に国賓として招かれた小山内薫がモスクワでソ連側から歌舞伎招請を持ちかけられ、それが松竹へと伝えられ企画が動き出したとされていた。コンラッド経由の別ルートでの水面下の折衝もあり得たのではないか、と太田氏は睨んでいる。
帰国後のコンラッドは、プロレタリア作家・中西伊之助の戯曲『武左衛門一揆』(1927)を翻訳する。ちゃきちゃきの同時代演劇である。しかも、驚くべきことにその上演をメイエルホリドに持ちかけてすらいるのだ(1928年12月)。
国文学研究の泰斗で「象牙の塔」に閉じこもるイメージの強いコンラッドに、かくもアクチュアルな側面があるとはこれまで想像できなかった。彼もまた彼なりに、激動の1920年代の住人であったのだろう。
日本古典研究の碩学とアヴァンギャルド演劇の雄とが対話を交わし、容易にコラボレートしうるような「場」が存在した。ジャンルを超えたこうした「人的ネットワーク」こそが未曾有の歌舞伎訪ソ興行を実現させたのではないのか。こうした確信が太田氏の所論に漲っている。
まだ推論は確たる裏づけを欠き、荒削りの部分を多く残してはいるものの、たいそう示唆に富む内容であることは疑いなかろう。充分な時間をかけ証拠史料を渉猟すれば、必ずや瞠目すべき成果を生むこと間違いなし。なんとも楽しみなことだ。