夕方から外出し、西船橋駅構内の珈琲屋で布川さんという若い女性と初めて会う。
彼女はロンドンで音楽学を学び、プロコフィエフの楽曲についての修士論文を書いて帰国した俊英研究者である。小生がたまたま寄稿することになった研究誌 "Three Oranges" の同じ号に大田黒元雄について論考を執筆中だというので、架蔵する大田黒の初期著作(いまやどれも稀覯本である)をお貸しする。ついでに、九年前に書いた拙稿「ニジンスキーを観た日本人たち」の抜刷も進呈した。
大田黒はプロコフィエフとの交友の一部始終を日記形式で書き留め、『第二音楽日記抄』(音楽と文学社、1920)として公刊しているので、これが英訳され紹介されればさぞかし意義深かろう。論文の仕上がりが楽しみである。
布川さんは11月にワレリー・ゲルギエフの指揮する演奏会でプロコフィエフの第三ピアノ協奏曲(「越後獅子」によく似た旋律の出る、いわくつきの曲だ)を聴いたその翌日に、ロンドンの編集長(彼女の恩師である由)から執筆の依頼を受けたのだという。「あまりの偶然に驚いたけれど、これも何かのご縁かと思い、お引き受けした」と語っていた。そのとき、「誰かほかに、日本人で Prokofiev in Japan というテーマで執筆できる方はいないかしら?」とも尋ねられたという。
小生がこの雑誌編集部にバックナンバー問い合わせのメールを出したのは、その次の日なのである。全くもって驚くべき偶然というほかない。
いや、こうしたことはすべて必然の成り行きなのだ、という気もしてきた。すべては天の配剤、「音楽の神様」のなせる業なのだ、と。