ちょいと必要があって、別棟の書庫で探しもの。もう十年近くも前、ある原稿を書くために集めた書籍やコピーの束をひっくり返す。
その原稿とは東京・池袋にあったセゾン美術館での「ディアギレフのバレエ・リュス」展のカタログに載せるため、大慌てで調べながら書いた「ニジンスキーを観た日本人たち」という論考である。その時点でもうセゾン美術館の閉館は決まっており、展覧会の準備に際しては、関係者の間で、なんだか「ええい、この際やれることはなんでもやってしまえ」といった、一種やけくそ的でアナーキーな雰囲気が漂っていたように思う。1998年のことだ。
カタログの分厚さも尋常ではなく、寄稿者は実に十六名を数える。担当学芸員の一條彰子さん、バレエ通の三浦雅士、薄井憲二、鈴木晶といった面々が巻頭論文を書いたほか、巻末に海野弘、山口昌男、船山隆、沼野充義などの錚々たる論客がずらり顔を揃え、それぞれ得意な切り口からエッセイを寄せている。その末席を汚す形で小生も寄稿させてもらったのだ。あのときもえらく緊張したなあ。なんたって、まわりが偉い先生方ばっかりだものね。
執筆が決まってから原稿の締切まで、たしか三か月ほどしかなく、「日本人のバレエ・リュス体験」というテーマで本当に書けるのかどうか心許なかった。長野県馬籠の島崎藤村記念館に二度も調査に通い、日本近代音楽館でいろいろ教えていただいて、なんとか目鼻をつけた。今考えても冷汗もの、無謀な企てであった。
与えられた紙数は四百字詰原稿用紙で五枚。それなのに、小生は三十枚も書いてそのまま提出した。ひどい話だ。幸い誰よりも早く原稿を渡したこともあって、めでたく全文が採用されて活字になった。忘れがたい思い出である。
大田黒元雄(1893~1979)のことも、そのときに俄か勉強した。
彼はロンドン大学で経済学を学ぶという名目で1913年に英京へ渡ったが、もっぱら演奏会通いと観劇に明け暮れていた。その彼が1914年にニジンスキーの一座の公演(彼は前年にディアギレフから「破門」され独立していた)とディアギレフのバレエ・リュス公演とに足繁く通っていたのである。これは山田耕作(1912、ベルリン)、小山内薫と島崎藤村(1913、パリ)のそれと並んで、日本人のバレエ・リュス体験のうち最も早く、最も意義深いものに数えられる。
大田黒は帰国後、自ら創設した版元から『露西亜舞踊』(音楽と文学社、1917)を刊行し、ロンドンでの見聞をつぶさに紹介した。その反響はほうぼうからあがった。拙文から少しだけ引用する。
『露西亜舞踊』に驚嘆した人物はほかにもいる。ロシアの作曲家プロコフィエフ(1891~1953)は、革命後の混乱を逃れてアメリカへ渡る途中の1918(大正7)年夏、日本に立ち寄って東京でピアノ・リサイタルを催した。そして全く思いがけなく、欧米ですらまだほとんど知られていない自分の音楽を熟知している一人の日本人と出会う。大田黒元雄だった。二人の青年はたちまち意気投合し、連日のように会っては音楽談義に花を咲かせ、プロコフィエフは自作の数々を、『ペトルーシュカ』を、チェレプニンの『ナルシス』をピアノで弾いて聴かせた。バレエ・リュスがしきりに話題に上った。プロコフィエフはディアギレフから新作バレエの作曲を依頼されており(『道化師』)、何と大田黒と同じく1914年のロンドンでバレエ・リュス公演を観ていたというのだ。彼は大田黒が差し出した『露西亜舞踊』を見て非常に喜び、ベヌアやニジンスキーやカルサーヴィナについて思い出話をした。そして「是非マドリツドに居るデイアギレフに送つてやれと云つて其のアドレスを教へて呉れた。私は喜んで送らうと約束した」。
この信じられないような出会いを準備したのも、考えてみれば1914年のロンドンでのバレエ・リュス体験だった。大田黒とプロコフィエフの間でもまた、確実にひとつの「熱狂」がわかちあわれていたのである。
書き写していて、だんだん気恥ずかしくなってきたので今日はこの辺で。