かねがね大事にしてきた想い出を、たとえば、小説のなかの人物に与えたりすると、突然人工の世界にほおりこまれるためか、それがだんだん衰弱して影のうすい存在になってしまうということは、なんども経験している。想い出が心のなかから消えてしまうわけではないが、それが個人的な暖かみや過去を誘いこむ引力を失ってしまうのだ。そしてやがて私のものというよりも小説のものになってしまう──それまでは芸術家など近よれないように大事にしまってきたのに。だから私の記憶のなかではなん軒もの家が当時の無声映画のなかでのように音もなく崩れていった。あのなつかしいフランス人の家庭教師の先生も、いちど小説のなかである少年に与えてしまったため、別の少年の幼年時代の先生になってしまい、彼女の面影は急速に薄らいでいった。
ウラジーミル・ナボコフ 『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』 (晶文社、1979)大津栄一郎訳 より
このところ電車のなかでこの本をゆっくり味読している。年代ものの美酒を味わうように、少しずつ、ちびちびと玩味する。ずいぶん前に通読しているので、先を急ぐことはない。
この一節は特に心に残った。記憶というものの脆さ、儚さをものの見事に言い当てていたからだ。自分だけのかけがえのない想い出を、作家という職業上の必要に迫られて、文字に書き記した途端、その大切な記憶は自分のなかから外へと、いわば雲散霧消してしまい、「私のものというよりも小説のものになってしまう」。
う~ん、これは他人事ではない気がする。いい気になって、過去の記憶を辿りながら、あのときあのことをブログに書き散らしているうちに、いつのまにか、おのれの真実を見失ってしまうのだろうか。