東京への往還に読書はつきものだ。持参した吉田秀和の文庫本は行きに読んでしまったので、帰路用に何か新書でもと思い、東京駅構内の書店で物色するが、欲しい本に出くわさない。
この頃の新書はどうしてこう実用書っぽいんだろう。ちくま新書も中公新書も岩波新書も新刊にはまるで食指が伸びない。諦めて帰ろうとした矢先、さして期待もせず眺めた集英社新書(失礼!)の棚で、こんな一冊に目がとまった。半年ほど前に出たものだ。
ハロルド・ピンター、喜志哲雄訳 『何も起こりはしなかった──劇の言葉、政治の言葉』 集英社新書、2007
芝居好きとはとうてい言えない小生は、ピンターについて殆ど何も知らない。せいぜい、ジョゼフ・ロージーの映画のシナリオ作者として馴染んでいる程度。『できごと』『召使』『恋』の三本だ。
とりわけ、ほぼ同時代に観た『恋 The Go-Between』(1970)には忘れがたい印象がある。ロージーとのコンビでは、ほかに製作に至らなかった『失われた時を求めて』のシナリオがあり、なぜかこれだけはわが書棚にある。
まあ、ピンターに対してはその程度の淡い縁しかない。
そんな小生もこの一冊にはぶちのめされた。
冒頭、2005年に彼がノーベル文学賞を受賞した際の「受賞記念講演」を読んで、思わず息を呑んでしまった。「真実とは何か」と問いかけ、演劇には唯一不変の真実などない、真実はたくさんあるのだ、としたあと、「それでも自分は真実への追求をやめることはできない」、と喝破する。
それからあとは堰を切ったように、武力と経済力を背景に、嘘と欺瞞と不誠実を押し通す米国への怒りが凄まじい勢いで繰り出される。中東で、中米で、この国がいかに殺戮と暴虐をほしいままにしてきたかを、委曲を尽くして痛烈に告発してやまない。これが「晴れの舞台」ノーベル賞授賞式の場でなされたのだから凄まじい(ピンターは重病のためヴィデオで全文を読んだ)。
とりわけ、ニカラグアで米国が行った非道な内政干渉と政府転覆に対して、ピンターは絶対に赦さないという姿勢を一貫して押し通しており、さまざまな機会になされた講演でも、それは繰り返し強い口調で述べられる。この怒りの凄まじさは今の時代にあっては愚直と呼ばれもしようが、そんな時代だからこそ、彼の一本気なまでの純粋さと誠実さは貴重だ。
もちろん、英国人としてピンターの怒りの矛先は米国の追随者たるブレアにも容赦なく向けられる(「ブレア首相への公開書簡」)。
帰りの車中で一気に読み通し、最後からふたつ目のインタヴューまできたら、嬉しいことにピンターは質問に答えて、ジョゼフ・ロージーとの共同作業について、こと細かに語っている(1996)。
『恋』で敢行された過去と現在が複雑に往還する話法について、製作サイドが難色を示さなかったか、との問いに彼はこう答えている。
ええ、たしかに問題になりました。しかしその頃は、シナリオ作家と監督が結束すると非常に強い発言力をもちえたのです。『恋』の根底にあるのは、マイケル・レッドグレイヴが演じる六十年後の人物のフラッシュフォーワードです。少年がすっかり年を取り、不意に車から下りてくるといった場面です。そして、あなたが言う通り、徐々に、老人と少年とやがて老人になる少年とが同一人物であることが明らかになります。しかし、製作者側は言いました──「ああ、頼むからこれはやめてくれ。いったい何が起こってるのか、誰にもわからないだろうよ」 そこでジョーと私は言いました──「大丈夫、観客にはわかります、このやり方を変えるつもりはありません」 これは結構大変なことでした。[…]自分の思い通りに作品を仕上げることができる監督は今はほとんどいませんが、私たちには自分の信念を押し通す勇気があったのです。
そうなのだ、「信念を押し通す勇気」という点で、ロージーとピンターはまさしく好一対なのだ。
[…]私にとっては、ジョーと一緒にああいった映画を作ったのは忘れられない経験でした。それはまるで昨日のことのように感じられます。
ああ、それだからこそ、受け手であるこちら側でも、はじめてあの映画を観たときの記憶が、まるで昨日のことのように蘇るのだ、と今になってつくづく思う。