[…]以上の大まかな説明によつても「能」と「歌舞伎」と「振事」とが其の本質に於て異なつて居ることだけは略ゝ明かでありませう。いづれにもせよ、三者共に麁末ながら一種の楽劇であることは明かです。而して此の楽劇たることが実に我が国固有の特質で、むづかしく申せば、彼の希臘の国劇の本来が楽劇式であつた如く、支那の国劇の本来が楽劇式である如く、ゴシック文明の国劇が其れに反して純劇式であった如く、我が国劇の本来は楽劇式であるのです。されば我が国劇を改良しようとするには、是非とも其の固有の特性たる楽劇といふ品質を時の需要と好尚と理想とに応じて発展し醇化し、之れをして廿世紀の一文明国の藝術たるに相当すべき一種の純楽劇たらしめようと力めるが最も当然な心掛であらうと思ひます。
但しこゝに楽劇といふのは、決して西洋でいふ「オペラ」即ち歌劇[傍点つき]とい意味ではない。近頃は頻りに「オペラ」を作れ、「オペラ」を作れといふ呼声が聞えますが、それと私共の意見とは全く別である。成程歌劇[ルビ:オペラ]は楽劇としては尤も発達した形式でもありませうが、或は我が国の楽劇も遂には変じて歌劇[オペラ]式のものになることが無いとも申されんが、併し左様の事は如何に早くも百年乃至百五十年以後の話でありませう。又幸ひに首尾よく歌劇の端が開けたとしてからが、それは司馬江漢このかた今日までに発達し来つた日本式油絵などを類例[アナロジー]に取るべき程の甚だ見すぼらしい穉ないものが出来る位が関の山ではありますまいか。
今尚ほ英国に見るに足る自国歌劇[ナシヨナルオペラ]が稀有なのに照らしても、我が国に歌劇[オペラ]が出来て、欧洲人に見せて恥かしくなく、こそばゆくない時代は先づ先づ遠いことゝ思はねばなりますまい。蓋し摸倣のみを主とする弟子が師匠に勝る出藍の作を為すことは個人としてさへも絶無です、况んや国としては絶無以上でありませう。摸倣は間違つた改良手段であるといふ仔細は此の点にも存するのです。
どうです、実に理路整然たる所論でせう。これは坪内逍遙の『新楽劇論』(早稲田大学出版部、1904)の引用です。この書物は決して空理空論ではなく、如何にして新時代に相応しい日本の舞台藝術を創り出すか、その方法を具体的に指南した、一種の実用書だつたことがこの短い引用からもわかるでせう。彼の知見はなかなかに的を射ており、英国には誇るべきオペラがまだ存在しないこともちやんと知つてゐる。大した男です。
もしも逍遙翁が生き返つて一昨日の『オルフェオ』公演を観たならば、いつたい何と評したであらうか。そんな想ひを抱き乍ら、この一節を書き抜いてみました。
実を云へば今日たまたま早稲田大学まで出向く用事があり、早く着いたので古本街をそぞろ歩いてゐて、この本の初版本(明治三十七年刊)を見かけたので、これも何かの縁かと思はず手に取つて仕舞つたと云ふ次第です。
たまたま這入つたこの平野書店の品揃へに感心。戦前戦後の文藝雑誌も充実してゐました。すつかり気を良くしてそのあと続けざまに十数店覗いたのですが、これが時間の無駄。仕舞屋同然の店も小奇麗に飾つた店も、等し並に何一つ見つからない。数年後に古本街が丸ごと消滅してゐても文句は云へないと思ひました。
二時半近くになつたので、急ぎ足で戸山キャンパスへと赴き、「早稲田大学比較文学研究室秋季公開講演会」を聴講。演題に惹かれる響きがあつたのでちよいと足を運んでみた次第。講師は次のお二方。
澤田和彦教授(埼玉大学) 「白系ロシア人の足跡を求めて」
伊東一郎教授(早稲田大学) 「山田耕筰とロシア」
澤田氏は労作『白系ロシア人と日本文化』(成文社、2007)を上梓されたばかり。その刊行に結実した十年にわたる研究調査の経緯を手際良く紹介されました。これは小生の関心領域とも重なるので、稀少な史料に辿りつくまでの労苦がまるで我が事のやうに感じられました。
続く伊東氏の講演は、ご当人が「調べ始めて日が浅い」と前置きされていたやうに、研究発表と云ふより酒席の座談に類する底の浅い発表でした。「山田耕作とロシア」は云ふ迄もなく魅惑的な(それ故に錯綜した)テーマですが、伊東氏は専ら歌曲集「露西亜人形の歌」の話題に終始し、細部の詰めも甘く、時代への洞察にも欠如してゐました。
ロシアのアーカイヴが未調査なのは致し方ないとして、さしたる困難を伴はぬ日本側の同時代文献すら調べぬまま発表に及んだ軽率さは早大教授に似合はぬ「蛮勇」と申せませう。まさかこれが伊東氏の本領ではないでせうが。
客席に居られた山田耕筰研究の第一人者、後藤暢子さんにご挨拶。たまたま帰路の地下鉄が途中まで一緒になつたので、折角の機会だからと、いくつか山田についての質問をさせていただくと、たちどころに明快な回答が返つてきました。流石だなあ。研究者はかうでなきやあね。