(承前)
休憩後はオルフェオの冥府下り。
「希望」の精に伴われて三途の川に到る。そこで渡し守カロンテを音楽の力で篭絡し、いよいよ冥界へと辿りつく。冥王プルトーネの妻プロセルピーナのとりなしで、エウリディーチェを取り戻したオルフェオは彼女を伴って帰路につくのだが…。
ここでも「希望」役の波多野と、プロセルピーナの野々下が素晴らしい歌唱=演技を披露する。主役のポッジャーは後半に到ってだいぶ復調してきた様子だが、歌唱がやや一本調子なのが惜しい…。
前半から気になっていた演出への蟠りが終幕までずっと尾を引く。
せっかく能楽界の人材を起用したのに、能舞台に漲る静謐な緊迫感や研ぎ澄まされた人物の立居振舞はいささかも感じられず、ドラマ全体が弛緩した印象なのはどうしたことか。羊飼たちが幼稚園児のお遊戯さながらに右往左往するのに絶望的な気分になった。
衣裳はそれなりに能装束を参照しているのだから、思い切って所作を切り詰め、様式化すべきではなかったか。演出担当の野村四郎はおそらくオペラを知らず、そこに起因する遠慮と躊躇があったのではないか。そもそもバロック・オペラには正統的な演出などはなく、シェイクスピア劇と同様、いかなる流儀の演出法も当て嵌めることが可能なのに、能の方法論を徹底して貫く勇気が演出家には欠けていた。
大詰めで失意のオルフェオを太陽神アポロが救出し、そこにさらに女面を被った舞い手(全能の神ジョーヴェ?)が登場するという幕切れも唐突の感が否めない。
1998年に英京で観た『オルフェオ』では演出のトリーシャ・ブラウンが歌手たちを特訓し、モダン・ダンスの所作を徹底的に叩き込むことで、稀に見る完成度と強度を舞台にもたらしていた。しかもそれはモンテヴェルディを些かも裏切っていなかった。
その先例を思うにつけ、今回の演出はあらゆる点で不徹底の謗りを免れ得まい。
今回の公演は正直なところ期待と不安が相半ばしていた。ちょうど十年前、東京室内歌劇場が上演した『ポッペアの戴冠』(シアターコクーン)は市川右近の歌舞伎仕立ての演出が素晴らしく、「モンテヴェルディは歌舞伎なのだ!」とまで確信させられたのだが、まあそんな奇蹟がそう滅多矢鱈とあるもんじゃないことを思い知らされた次第。