朝から雨が降りやまない。できれば在宅としたいのだが、この週末で終わってしまう展覧会があるので、やむなくコートを羽織って出かける。
正午を少し回った頃、早稲田に着く。まずは大隈講堂裏手の学食で腹ごしらえ。七百円で満腹とはリーズナブル。味のほうもまあ、こんなもんだろう。
雨が少し小降りになったのを見計らって演劇博物館へ。先日ざっと鑑賞した企画展示「演劇人 坪内逍遙」を時間をかけじっくり再見。生涯を回顧する盛り沢山な内容なので、うっかり見落としそうな細部に宝が埋もれている。
1906年発足の文藝協会には数名の中国人留学生が関わっており、文藝協会に触発される形で自分たちの演劇団体「春柳社」を発足させ、東京で新劇公演を行っていた事実。ささやかな試みとはいえ、これが中国近代演劇の嚆矢なのだという。
その文藝協会から追われた松井須磨子は愛人・島村抱月と「藝術座」を結成するが、抱月の急逝で生きる支えを失い自殺した。誰もが知る新劇黎明期の悲劇だが、その須磨子が震える手で走り書きした逍遙夫妻宛ての遺書(1918)を初めて観た。なんとも鬼気迫る筆跡だ。
後年の逍遙は「民衆劇」の創設を企て、野外劇(ペーヂェント)と児童劇に力を注ぐのだが、とりわけ「文福茶釜」「因幡うさぎ」「すくなびこな」などの子供向けの芝居についての紹介が面白い。お面やら小道具やら影絵映画の原画など、この分野に注いだ彼の旺盛な意欲には驚かされる。
逍遙は常に現実を見据えたプラグマティストだった。『新楽劇論』で日本の舞台芸術の行く末を論じたら、早速その実践例として新舞踊「新曲浦島」の台本を書いてしまう(1904)。「西洋のようなオペラは当分は無理だが、今すぐ自分たちにできるものをやってみよう」というわけである。
その『新曲浦島』を大阪の芸妓たちの公演用に改作した『長生新浦島』(1922)という舞踊があり、大阪新町演舞場で初演された。そのときの公演写真、衣裳画、さらには衣裳の現物が奇蹟的に残されていて、八十五年前の絢爛たる舞台が彷彿とするのが素晴らしい。衣裳・小道具を担当したのは久保田金僊。その衣裳画の数々はまことに馥郁たる出来映えで、レオン・バクストの影響が如実にうかがえる。写真にみられる芸妓たちのポーズもいかにもバレエ風にバタ臭い。上演時の譜面も残っていて、邦楽器とヴァイオリン、チェロを併用しているのが面白い。
会場には逍遙がSPに吹き込んだシェイクスピアや児童劇の朗読が終始聴こえていて、これが実に朗々たる名調子。無声ながら大隈講堂で「リア王」を講じる最終講義の映像も残っていて、身振り手振りたっぷりの熱弁ぶりが拝めるのも嬉しい。
そもそも、こうした貴重な演劇史料を収集・保存・研究・展示する目的で建設されたこの「演博」そのものが逍遙の「作品」なのであるから、後世のわれわれはこの先人のお蔭を全面的に蒙っていることになる。
一時間半ほどたっぷり鑑賞して退出。雨は降り止まない。
ふと思いついて都電・荒川線に乗ってみる。久しぶりだが、周囲の眺めといい、車中の風情といい、独特の味わいがある。鬼子母神や庚申塚界隈もいいが、ごく一部分、飛鳥山のあたりで路面電車となってアスファルト道路を走り、急カーヴで王子に滑り込むあたりが白眉。
王子から京浜東北線で上野へ出て、芸大美術館で岡倉天心の展覧会を観てから家路につく。