(昨日のつづき)
プロコフィエフにとってピアノこそは幼少期から片時も離れずに奏でてきた楽器であり、いうならばおのれの分身であった。彼はその前半生を、世界中を旅しながら自作を披露するヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして生きてきた。
その彼が1923年作曲の「第五番」以来、ピアノ・ソナタという分野に全く手を染めずに十数年を過ごしたのは奇異な現象というほかない。
1939年の夏、彼が突如として新たなピアノ・ソナタの作曲を思い立ち、しかも第六番から第八番までの三曲を一気に発想し、全部で十楽章分の主題を同時並行して練り上げた、というのもいかにも唐突すぎて説明ができない。何がプロコフィエフをこのジャンルへと再び駆りたてたのか。
研究家で優れた評伝の作者ハーロウ・ロビンソンは、第五ソナタの作曲時期がプロコフィエフの(最初の妻リーナとの)新婚・蜜月時代にあたることに着目し、彼のなかの「ロマンティックな感情のたかまり」がピアノ・ソナタ作曲の契機となりうる可能性を指摘する。実際、この39年の夏、彼はコーカサス地方の避暑地キスロヴォツクで、「ミーラ」と呼ばれる文学好きの娘と出会って、密かに想いを募らせていく(リーナとの夫婦仲は破綻し、ミーラはやがて作曲家の二番目の妻となる)。
このロビンソンの指摘が的を射ているかは別として、プロコフィエフにとってのピアノ・ソナタとは自らの内面を映し出す鏡であり、インティメイトな感情を吐露する場であったと推察することに間違いはあるまい。公的な作曲家の「顔」である大がかりな交響曲や劇場音楽、映画音楽とは別に、心に去来する感慨や想念──束の間の幻影──を盛るための私的な器としてのピアノ曲を書き綴ることで、プロコフィエフは辛うじて精神の安定を保ち、前途多難なこの時期を生き延びたのではないだろうか。
注文を受けての制作ではないので、三つのソナタの作曲には異例なほど長い時間がかけられた。再考と推敲の機会はたっぷりあった。
その間に時代は大きく動く。スターリンは仮想敵だったはずのヒトラーと独ソ不可侵条約を結び、バルト三国を併合するとともにポーランドとフィンランドに軍を進めた。それも束の間、不可侵条約はあえなく破れて独ソは全面戦争に突入、ドイツ軍の破竹の侵攻によってレニングラードもモスクワも陥落の危機に晒された。
期せずして仕上げが戦時下に持ち越されたプロコフィエフのピアノ・ソナタ三曲は、戦時下の市民感情を代弁した楽曲と見なされ、いつしか「戦争ソナタ」と渾名されるようになる。
三曲の作曲期間と初演日は次のとおり。
ピアノ・ソナタ 第六番 作品82/1939~40年作曲/1940年4月8日初演
ピアノ・ソナタ 第七番 作品83/1939~42年作曲/1943年1月18日初演
ピアノ・ソナタ 第八番 作品84/1939~44年作曲/1944年12月30日初演
それまでのピアノ曲と同様、プロコフィエフは自分で演奏することを想定して、これらを途方もない難曲に仕立て上げた。ところが第六番を初演した時点で作曲家は驚くべき技量と音楽性をもった青年ピアニストと出遭い、あっさり従来の考えを捨てた。
第七番の初演はその若者、スヴャトスラフ・リヒテルの手に委ねられた。いっぽう、第八番はリヒテルの好敵手である「鋼の腕をもつ青年」エミール・ギレリスに托されることになる。
(明日につづく)