朝寝をしていて揺り起こされた。
そうだった、今日は早起きして早稲田大学へ行かねばならぬ。大学創立125周年記念シンポジウムがあるのだ。楽しみにしていた家人は用事があって行けず、代わりに小生が出向くことになったのである。責任重大。
そんなわけで、今日は朝九時半から夕刻六時までずっと早稲田キャンパスに居続けた。
角田柳作─日米の架け橋となった"Sensei"─
日時/2007年10月30日(火) 10:00〜17:00
会場/早稲田大学総合学術情報センター 国際会議場「井深大 記念ホール」
主催/早稲田大学、コロンビア大学
プログラム/
開会のことば: 加藤哲夫 (早稲田大学図書館館長)
司会: 宗像和重 (早稲田大学図書館副館長)
午前の部:
基調講演
「角田柳作の人と生涯」 内海孝 (東京外国語大学教授)
「アメリカにおける日本学の形成と角田柳作」 和田敦彦 (早稲田大学准教授)
「角田先生と私」 ドナルド・キーン (コロンビア大学名誉教授)
〜昼食休憩〜
午後の部:
インタヴュー(録画)
「コロンビア大学におけるアジア学の展開と角田柳作」 ウィリアム・T・ド・バリー (コロンビア大学名誉教授)
「角田先生の思い出」 甲斐美和 (元コロンビア大学図書館司書)
〜コーヒーブレイク〜
パネルディスカッション 「角田柳作が語りかけるもの」
コーディネーター: 内海孝
パネリスト: ドナルド・キーン、エミー・V・ハインリック (コロンビア大学東アジア図書館館長)、和田敦彦、角田修(角田家縁戚者)
閉会のことば: エミー・V・ハインリック
朝から夕方まで、盛り沢山のプログラムだが、実によく練り上げられた内容で、一瞬たりとも聞き漏らせぬ知的緊張の一日であった。この催しにかける早稲田大学の意気込みのほどがひしひしと感じられる。
角田柳作(つのだ・りゅうさく 1877〜1964)は東京専門学校、すなわち早稲田大学の前身校の出身。卒業後は福島・仙台・京都の中学校で教壇に立ったのち、一念発起して1909年に渡米。ホノルル、デンヴァーを経て1919年からニューヨークに在住。日本文化の紹介を志し、日本語書籍の集書に奔走する。1931年、それらの図書はコロンビア大学図書館に収まり、彼自身も日本部門の責任者となる。同時に教壇にも立ち、日本思想史を講じた。門下からはドナルド・キーン、ウィリアム・ド・バリーらの俊才を輩出、コロンビア大学、ひいては米国の日本学の礎を築いた人物として知られる。戦後も同大学で教え、歿する直前の八十六歳時まで講義を続けた。日本への里帰りの旅の途上ホノルルで長逝。享年八十七。
角田柳作のことはドナルド・キーンの自伝的エッセイのなかで繰り返し語られており、今日キーンさんが話された内容もあらかた読んで知ってはいたが、肉声で語られるとさすがに趣が深かった。今日はさらに、幼少期から晩年までを辿る内海氏の手際のよい解説や、1920〜30年代のアメリカにおける日本図書コレクションの形成史を丹念に跡づけた和田氏の報告、生前の角田を知るド・バリー、甲斐両氏の貴重な証言(概ねキーンさんの回想と符合する)が加わることで、明治から昭和へと困難な時代を生き抜き、太平洋に架橋する大仕事を成し遂げた稀有な人間像が生き生きと浮かび上がってきた。
1920〜30年代の日露交流史に興味を抱く小生は、かつて1928年におびただしい日本の児童書がモスクワへ渡った顛末を調べたことがあった。その折に、日本側の窓口がことごとく民間の篤志家たちであることに驚いたものだが、和田氏に拠れば角田が1920年代に日本図書の収集を志したとき、賛同したのはやはり民間の実業家たちだったという。それが30年代になると日本政府の文化戦略の一部に組み込まれていくという道筋であるらしい。このあたりの事情を総合的に見つめ直すことで、国境を越えた図書の移動をめぐる新たな20世紀史が書けそうな予感がした。
五時過ぎにシンポジウム終了。まだ少し時間があったので、同じキャンパス内の「大隈タワー」内で開催中の「角田柳作展」を見学。ご遺族のもとに残された少・青年期の写真・手紙類、コロンビア大学提供の晩年の資料、早稲田大に寄贈された角田の旧蔵本によって、ひとりの明治人の生涯、その気骨と冒険心がまざまざと立ち現れてくる。しかもここは入場無料なばかりか、懇切なパンフレットまで無料配布される。
展示品にはサンソムやキーンから贈呈された本もあり、扉や見返しには必ず "Tsunoda Sensei" あるいは "To Sensei" と献呈の辞がペン書きされていて、思わず微笑んでしまう。