(29日のつづき)
そのことに誰一人気づかなかった。いや、ひょっとして気づいた者がいたとしても、あえて口外しなかったのかもしれない。プロコフィエフが苛烈な独ソ戦のさなかに書き進めたピアノ・ソナタ第七番、そこにどのようなメッセージが籠められているのか。
初めてその事実を指摘したのは、英国のプロコフィエフ伝記作者ダニエル・ジャッフェ Daniel Jaffé だった。
1990年代半ばのことらしいのだが、ジャッフェは声楽家の女友達と一緒にたまたまプロコフィエフの第七ソナタのCDを聴いていた。第二楽章の静かな瞑想的な主題が流れ出した途端、その友人がふと呟いた。「あら、これはシューマンの歌曲のメロディにそっくりだわ」。ジャッフェは不意を突かれた気がした。全く思いがけなかったし、そもそも友人が指摘するその歌曲を聴いたことすらなかったのだ。
それはローベルト・シューマンがクララと結婚した1840年、アイヒェンドルフの詩に作曲した歌曲集『リーダークライス』作品39のなかの一曲なのだという。第九曲の「悲しみ Wehmut」という曲。
試みに聴いてみると、たしかに瓜二つの旋律だ。ゆっくりしたテンポも共通しているし、おまけに調性まで同じホ長調なのだ! 偶然の一致だと片づけるには両者はたしかに似すぎている。
ここで問題なのは、とジャッフェは指摘する。そのシューマンの「悲しみ」の歌詞だ。
アイヒェンドルフの原詩をまず引いてみよう。
Ich kann wohl manchmal singen,
Als ob ich fröhlich sei;
Doch heimlich Tränen dringen,
Da wird das Herz mir frei.
Es lassen Nachtigallen,
Spielt draussen Frühlingsluft,
Der Sehnsucht Lied erschallen
Aus ihres Kerkers Gruft.
Da lauschen alle Herzen,
Und alles ist erfreut,
Doch keiner fühlt die Schmerzen,
Im Lied das tiefe Leid.
拙訳が示せるといいのだが、ちと荷が重いので、西野茂雄さんの簡潔平明な訳詩を引かせていただく。
心がうきうきしているかのように
歌うことだってしょっちゅうある
人知れずわく涙のおかげで
ようやく平静を保っているくせに
春風が吹くと、窓の外で
とらわれの籠の中から
夜鶯が
あこがれの歌をひびかせる。
すると、すべての人々が耳をかたむけ、
その歌声に心をたのしませる、
歌にこめられた深い嘆きに気づいて
胸いためるひとは、誰もいない。
旋律が似通っているからといって「引用」とは限らない。シンプルなメロディゆえ、偶然の一致、他人の空似ということだってあろう。プロコフィエフは他の作曲家からの影響を指摘されるのを忌み嫌っており、他人のモティーフのあからさまな借用はほとんど例をみない。だが、もしもこのとき、プロコフィエフがただ一回、やむにやまれずに禁を犯したとしたら…。
涙を押し隠して笑顔を繕い、籠のなかのナイチンゲールさながらに楽しげに歌う。それはもしかして、粛清の嵐に怯えながらスターリン賛歌を謳い上げる芸術家のことではないのか。「歌にこめられた深い嘆きに気づいて/胸いためるひとは、誰もいない」。
(明日につづく)