昨日、太田丈太郎さんと20世紀ロシアの芸術家たちを見舞った過酷な運命について話していて、ショスタコーヴィチとプロコフィエフのことがずっと脳裏を去らなかった。
それで帰宅後、棚からあれこれCDを取り出し、聴きながら物思いに耽った。
スターリン時代以後、ソ連ではあらゆる芸術表現が国家の監視下に置かれ、制作活動に厳しい規制と掣肘が加えられるようになると、ショスタコーヴィチは表面上は体制に従順なふうを装いつつ、密かに作品のそこここに隠されたメッセージを潜ませた、というのが今や通説となっている。
その際、彼がとったとされるふたつの手段は「音名象徴」と「引用」。
音名象徴とはつい先日ここでバッハやフォーレを例に紹介した、単語のアルファベットを音に置き換えるやり方のこと。ショスタコーヴィチの場合、自らのイニシャル(のドイツ表記)DSCH(Dmitri Schostakowitsch)、すなわちD-Es-C-H(ニ-変ホ-ハ-ロ)の四音の音型(動機)を自作の然るべき箇所に登場させ、何らかの意味を担わせた、というのである。
もうひとつの「引用」とは、自作・他作を問わず、他の作品の主題や旋律をさりげなく導入することで、これまたそこに何らかのメッセージを込めるやり方をいう。独ソ戦のさなかの1942年に初演された第七交響曲は「レニングラード」と題され、第一楽章の禍々しい行進曲ふうの主題は独軍侵略を表すとしばしば解されてきたが、それがレハールのオペレッタ「メリー・ウィドウ」からの「不真面目な」引用らしいことが判明し、そもそもこの曲が本当に「大祖国戦争」の雄々しい闘いを反映した音楽かどうかも疑わしくなった。作曲家の真意はどこか別のところにあったらしい。
それではプロコフィエフはどうか。1936年に「形式主義」批判の矢面に立たされたショスタコーヴィチと異なり、プロコフィエフのほうは自作が糾弾の対象とされることなく、西欧やアメリカへの演奏旅行も許されるなど、スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れる最悪の時代を巧みに乗り切っているかにみえた。だがこの平穏無事も長くは続かない。
1938年春の欧米演奏旅行はプロコフィエフが海外渡航が許された最後の機会となる(彼がハリウッドでウォルト・ディズニーと会ったのはこのときである)。
帰国後、エイゼンシュテインと組んで映画音楽「アレクサンドル・ネフスキー」を作曲した頃から、彼の身辺に監視と締めつけの兆しがひたひたと押し寄せる。
疾うに仕上がっていたバレエ「ロミオとジュリエット」の初演の目処は立たず、彼は「ソ連的な題材」によるオペラ「セミョーン・コトコ」を作曲して活路を見出そうとする。心強いことに、その演出には彼の青年時代からのヒーローである名匠メイエルホリドが名乗りを挙げてくれた。
「セミョーン・コトコ」のピアノ・スコアが完成に差しかかった1939年6月20日、メイエルホリドは秘密警察に逮捕された。その後の消息は杳として知れなかった(翌年2月銃殺)。彼の逮捕から一箇月もせぬうちに、その妻で女優のジナイーダ・ライフが在宅中、何者かの手で惨殺される。その両眼は無残にも潰されていた。
プロコフィエフの許に、当局からスターリンの生誕六十周年を祝うカンタータの作曲依頼が届いたのはちょうどその頃であった。なんという時代であろう。
独ソ戦のただなか、ショスタコーヴィチの第七交響曲に遅れること約一年の1943年1月、プロコフィエフの新作ピアノ・ソナタ第七番がモスクワで初演される。ピアニストは二十七歳の新鋭スヴャストラフ・リヒテル。
狂暴なまでに荒々しい両端の楽章に、深く悲痛な緩徐楽章が挟まるという三楽章構成は、ちょうど同じ時期に占領下のパリでアルテュール・オネゲルが書いた第二交響曲と不思議なほど似通っている。当時のモスクワ聴衆も、また後世の鑑賞者も、このピアノ・ソナタが戦争そのもの、でないにしても、戦時下の困難な状況を色濃く反映した楽曲と捉え、第六・第八ソナタとともに「戦争ソナタ」と呼び慣わして今日に到っている。
ところが、である。
(31日につづく)