(承前)
このあとの顛末は語るのが辛い。あまりにもやりきれない道筋だからだ。
一年余りの休養は彼女の指先の不具合を癒すどころか、状態は却って悪化していた。1973年2月の時点で、楽器のケースの開け閉めにも難儀するところまできていた。当初は過労からくるストレス障害か、チェリストに起こりがちな腱鞘炎かと軽くみられていた諸症状も、何か別の原因があるのではないかと察しられた。
その年の10月、専門医は診断を下した。彼女の病名は Multiple Sclerosis だと判定された。日本語では「多発性硬化症」と訳す。
多発性硬化症とは耳慣れない名である。小生もデュ・プレに関する報道で初めてこの病名を知った。中枢神経が冒される難病で、原因は特定されず、したがって有効な治療法も見つかっていない。「難病情報センター」のサイトから引用させていただく。
多発性硬化症は中枢神経系の脱髄疾患の一つです。私達の神経活動は神経細胞から出る細い電線のような神経の線を伝わる電気活動によってすべて行われています。家庭の電線がショートしないようにビニールのカバーからなる絶縁体によって被われているように、神経の線も髄鞘というもので被われています。この髄鞘が壊れて中の電線がむき出しになる病気が脱髄疾患です。この脱髄が斑状にあちこちにでき(これを脱髄斑といいます)、病気が再発を繰り返すのが多発性硬化症(MS)です。MSというのは英語のmultiple sclerosisの頭文字をとったものです。病変が多発し、古くなると少し硬く感じられるのでこの名があります。
なるほど、わからないなりに納得した。これは指先の腱鞘炎などとは本質的に異なる、生命の根幹にかかわる重篤な病であるらしい。
同サイトによれば、この病気の罹病率は10万人に数十人程度(欧米人の場合)といい、発病する部位によって視神経が損なわれたり、手足の痺れや麻痺が起こったりと症状は千差万別だという。原因については諸説あるが、自己免疫説が有力とされる(白血球やリンパ球が神経組織を攻撃する)。
多発性硬化症は進行が比較的緩やかで、再発と一時的快復を繰り返しながら慢性的に進行する。特効的な対処法がないため病状は次第に悪化し、身体の自由を奪われ、最終的には死に至るケースも少なくない。
チェリストにとって、この病に罹ったことは演奏家生命の終焉を意味する。天才少女として早くから教育環境に恵まれ、国民的アイドルから世紀の巨匠への道を順風満帆に歩んできたデュ・プレにとって、これ以上に無慈悲な宣告はないだろう。そのとき彼女はまだ二十八歳。そのキャリアはほぼ十年で無惨にも断ち切られてしまうのである。われわれ20世紀後半を生きる者にとって、それは取り返しのつかぬ損失であるが、誰よりもまず、彼女自身が底なしの絶望の淵に立たされたことは想像に難くない。よりによって、なぜこの私がこんな目に遭わねばならないのか。
演奏活動から退いたのちもジャクリーヌ・デュ・プレは健気にも後進のためにマスタークラスを催し、演奏会で「ピーターと狼」のナレーションを買ってでたこともある。しかしながら、そうした新たな挑戦も症状が小康状態を保っていた一時期に限られた。病はじわりじわりと彼女の体を蝕んでいき、80年代に入るともうほとんど人前に姿を現す機会がなく、その近況もぱったり途絶えてしまう。
デュ・プレの新録音がもはや望めないと悟ったレコード会社は、放送局に眠っていた全盛期の実況録音を発掘し、鳴り物入りで売り出した。あたかもジネット・ヌヴーかディヌ・リパッティででもあるかのように…。音楽業界ではもはや彼女は生きながら葬られ、完全に過去の人として遇されたのだ。
身体の自由が失われていくにつれ、彼女は自室に閉じ籠もって過去の栄光にのみ生き甲斐を見出すようになり、往時のレコードをかけては「私は素晴らしい演奏家だったでしょう」としきりに同意を求めたということである。
そしてついにその日がやってくる。
1987年10月19日、不世出のチェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレは息を引き取った。享年四十二。
「神々の愛でし人は夭折す」と古人は言う。若者のあり余る才能に天上の神々が嫉妬して、その命を奪うのだという。古来その例は枚挙に暇がないが、彼女のような悲劇的な夭折はちょっとないのではないか。二十八で栄光の頂から絶望の淵に沈んだのち、真綿で首を絞めるようにじわじわと、十四年かけて緩慢な死を味わわされた。思えば神々もむごい仕打ちをしたものである。
彼女が世を去って今日でちょうど二十年になる。