いろいろあったけれど、まずは幸せな人生だったと思っている。こう書くとまるで遺書みたいだが、このブログはまあ延々と続く遺言状のようなものなのだから、そう言いきってしまおう。
少なくとも音楽との出会いに関しては幸運の連続だったと感じる。
まるきり芸術とは無縁の田舎の子供が英米のポップスに目覚め、やがてクラシック音楽に魅せられていく。全然そうした環境に育たなかったのに、なぜか知らん、そうなってしまったのだ。
はじめはトランジスタ・ラジオで満足した。小・中学生の頃だ。家には辛うじてシングル盤がかけられる電蓄があった。近所に住む上野君という友人のお父上がたしかニッポン放送のプロデューサーかディレクターだったかで、不要になったヒット曲のシングルを譲って下さった。ホリーズの「バス・ストップ」、ラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティ」、ママス&パパスの「アイ・ソー・ハー・アゲイン」、ダスティ・スプリングフィールドの「この胸のときめきを」なぞをありがたく貰い受けて愛聴した。歌詞を辿りながら、文字どおり盤が磨りきれるほど聴いたのである。
同じ友人のお父さんがどうした弾みか、クラシックの演奏会の切符を下さったことがある。高校一年の春だった。
生まれてはじめて生で目にするオーケストラ。その頃はさすがにFMラジオを聴いていたとはいえ、間近に聴く管弦楽の鮮烈な響きに圧倒された。最初の曲、コダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」の冒頭第一音で打ちのめされた。1968年5月3日のことだ。
オーケストラは日本フィル。そのときの指揮者がイストヴァン・ケルテス(イシュトヴァーン・ケルテーシュ)で、独奏者がロベール・カサドシュだったのは僥倖を通り越して、もはや奇蹟としか思えない。身に余る光栄というほかない。
深みに嵌まった高校生はそのあと、今井信子の(おそらく)日本デビューに遭遇し、マルタ・アルヘリッチの初来日初日を最前列で聴き、リーザ・デラ・カーサの歌う「四つの最後の歌」に痺れ、カラヤン&ベルリン・フィルの絶頂期に立ち会った。大学時代にはショスタコーヴィチの14番と15番の交響曲日本初演にも足を運び、「幻の」大指揮者ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの来日公演にも居あわせて、誇張でなしに「立ち上がれないほど叩きのめされた」。
その後、1970年代中頃からは日本のロックやポップスに肩入れした一時期があり、クラシック音楽と殆ど無縁の十五年間があったのだが、その間にデビュー時の荒井由実や矢野顕子や大貫妙子や金子マリ&バックスバニーを浴びるほど聴いたのだから全くもって悔いなぞない。
90年代に入ると、すっかり縁遠くなっていたクラシックへの回帰が起こる。
これまた親切な友人が「沼辺サンは外国を知らなすぎる」と、半ば強引にロンドンとパリへと連れ出した。英京に着いてすぐに出かけたコンサートで、モンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」をジョン・エリオット・ガーディナーの指揮で聴いて、天地が覆るほど驚いた。こんな素晴らしいオペラがモーツァルトの遙か以前に書かれていたとは! それからというもの、毎年のようにロンドンとパリを訪れて、室内楽から歌劇、ミュージカルまで、夥しい数の舞台を見聞した。
聴くべきものは悉く聴いた。勝手にそう一人合点しているのである。
あのときあれを聴き逃がした、取り返しがつかない、と地団駄を踏むような痛恨事はない。ひとつもなかった、と豪語したいところだが、実はひとつだけある。
彼女を聴くことができなかった。すんでのところだったのに、すぐその傍らまで行ったのだが…。
もう二度と機会は得られない。もはやこの世の人ではないからだ。
(明日につづく)