またぞろ古い話で恐縮だが、十代の頃、エドヴァルド・ムンクに夢中になった一時期がある。
それは1969年11月8日に始まり、ほぼ一年間続いて唐突に終わった。
きっかけは朝日新聞の小さな紹介記事だった。なんだか面白そうだぞと十七歳になったばかりの田舎の高校生はバスと電車を乗り継いで上京し、銀座八丁目の東京画廊まで足を運んだのだ。その日は展覧会最終日で、同じ新聞記事を見たのだろうか、大学生くらいの若い観客で狭い画廊は溢れかえっていた。入場制限でずいぶん待たされたのを憶えている。
はるばる出向いた甲斐があった。「ムンク版画展」は想像を絶する世界を開示して、少年を震撼させた。誇張ではなしに全身に鳥肌が立つような体験だった。生の不安、死の恐怖。どの作品にも憧憬と幻滅、惑溺と冷笑が微妙に入り混じり、独自の光芒を放っていて、片時も目が離せなかった。
展示されていたのはニューヨーク近代美術館から貸し出された六十七点のリトグラフと木版画。その日の手控え帖をみると、いくつものタイトルが英語のまま書き写され、震えるような字で拙い感想が書きつけてあった。
"The Sick Child"
"Two People (The Lonely Ones)"
"Women (The Sphinx)"
"Vampire"
"Jealousy"
"Summer Night"
"Women on the Beach"
"The Kiss"
"Attraction"
"Anxiety"
"The Shriek"
"Into the Woods"
"Madonna"
"August Strindberg"
"Self-Portrait"
...
ほとんどすべての作品が1890年代、それも1895年から97年までに集中している。こうして題名を書き写しているだけで、ひとつひとつの版画の絵柄と色合いが記憶の底から生々しく立ち現れてきて、自分でもちょっと怖いくらいだ。
それからの何日か、寝ても醒めても熱に浮かされたようにムンクの幻影に脅かされた。オブセッションという奴である。
何を見ても誰と出会っても、それがムンクの世界の出来事や住人であるかの如き錯覚に襲われた。ちょうど同じ時期にレコードで聴いて夢中になったピアニストのマルタ・アルヘリッチ(当時はアルゲリッヒと言った)もムンクの描く
魔性のマドンナそっくりに思えた(
→これ)。
翌1970年2月にNHKでたまたま観たケン・ラッセルの伝記映画『夏の歌』で、老作曲家ディーリアスの陰気な幽霊屋敷のような隠遁所で、壁に飾られたムンクの版画を目にして(実際にディーリアスはムンクと親交があった)「さもありなん」と頷いた記憶も鮮明にある。銀座のイエナ書店でペーパーバックのムンク評伝を買ったりもした。
小生のムンク熱は麻疹のようにあっけなく消えた。
銀座の画廊で版画展を観て一年も経たぬ1970年9月から10月にかけて、神奈川県立近代美術館で初の大掛かりな回顧展「エドワルド・ムンク展」が開催された。
過大なる期待を抱いてはるばる鎌倉まで出向いて、その結果、大いに落胆した。「なんだ、これは…」「裏切られた!」という想い。「ムンクの正体見たり!」という気がしたものだ。
断っておくが、展覧会には咎はない。丹念に画業を辿り、その生涯と仕事の全貌を明かしたからこそ、良くも悪くも「正体」が見えたのである。
一年前に小生が観た1890年代の版画群は彼の絶頂期の作品だったのだ。その後ムンクが繰り返し採り上げる主題やモティーフのほとんどが出揃っていて、しかもそこには「魂の叫び」としか言いようのない、かけがえない表現の真率さと、ヴォルテージの高さが備わっていたのだ。
「浜辺のふたりの女」も「孤独な人々」も「波止場の女たち」も、ムンクは同じ主題と構図を用いて1920~30年代にリメイクを試みる(よせばいいのに!)。そして、どれもこれもが無残な出来だった。徒に色彩と筆触が派手なばかりで、表現は核心を突かず上っ面の描写に終始し、悉く力のない空虚な「抜け殻」に思えたのである。世紀末の闇を辛くも生き延びたのち、ムンクのなかで何かが失われたとしか思えない。生ける死人同然なのだ、と言うと酷かも知れないが、「お願いだから、昔の焼き直しだけはやめてくれ」と、そう言いたい気持ちだった。
結局、ムンクとはその程度の芸術家だったのだ、という苦い認識。「正体見たり!」というのはそうした意味である。
(明日につづく)