(承前…それも
9月23日の続き)
随分と間が空いてしまったが、昭和初年、石井桃子とその無二の親友・小里文子の青春時代の話である。
流布している年譜に拠れば、石井桃子が文藝春秋社に入社したのは1929(昭和四)年12月とされる。ただし当初は本採用ではなく、正式に社員に昇格したのは一年後の1930年12月のことと推察される(これについては後述する)。
前回、『文藝春秋』誌の巻末のふたつのコーナー「社中日記」と「社中綴り方」のことを紹介した。これらのページには『文藝春秋』のみならず、別冊の『オール讀物號』、姉妹誌である『映画時代』『モダン日本』『婦人サロン』の編集者たちも実名で登場し、めいめい署名原稿を寄せている。当時の文春編集部員の動向を探るうえでまたとない史料なのである。
過日、1928年から数年分の『文藝春秋』を調べた限りでは、石井桃子の名がはじめて登場するのは1931年1月号の「社内綴り方」においてである。短いので全文を引く。
◎ 石井 桃子
社中綴り方など云ふものは、社に関係ない方には、面白くもないのではないか知ら……と前から思つてゐたので、知らん顔をして居たら、どうしてもお目見えのいみで書く様にとの事。今度から社員と云ふ名を頂いたもの。社の方々とはもう二年近くもの間、私達のよき……或は悪しきパルだつたのだから、新しい感興も湧きませんが、このパル達はお祝ひのいみで私にお茶を強要したので、少し許り痛く感じてゐます。
石井の入社は1930年12月であると先に述べたのは、この記述を根拠とする。ただし彼女はこの時点で「もう二年近くもの間」編集部員と「パル」同士だったというのだから、逆算すると1928年暮か29年初め頃にはもう文藝春秋社で編集を手伝っていたことになろう。
実は石井桃子の入社と時を同じくして、男性三名、女性三名(石井を含め)の編集者が社員として本採用になっている。
女性社員は石井のほか瀬尾梢、相川敏子である。折角だから彼女たちの「綴り方」デビューも併せて紹介しよう。
◎ 瀬 尾 梢
文藝婦人会がペチヤンコになつて社の方に救はれました。今迄社の人達が遊んでばかりゐるやうに思つたものですが、なかなかどうして仕事に熱心なのに驚ろきました。だてにレイン・ボーでお茶を飲んでゐるのではありませんでした。ですから私も皆さんに倣つてよく遊ばうと思ひます。
◎ 相川 敏子
今月カラ、社ノ一年生ニナリマシタ。マダ何モサツパリ分リマセンノデ、万事ハ、斎藤、金井両センセイノ御指導ノモトニ、ヨイ生徒ニナラウト、一生ケンメイ勉強シテヰマス、ミナサマ、ドウゾヨロシクオ願ヒシマス。
瀬尾が文中で記す「文藝婦人会」とは速記、タイプなどの技能をもちながら未就業の女性を集めた組織。菊池寛の発案で発足し、文藝春秋社内で活動していたが、ほどなく解散となった。瀬尾はそこから抜擢された人材だったのである。相川のそれまでの経歴は不明である。
同じ「綴り方」欄で『モダン日本』編集者の西村晋一が「石井桃子さんはモダン日本の記者になつた」と明言しているので、このときの石井の配属先が判明する。あとのふたりについては詳らかではない。
前回ここで紹介したように、文芸春秋社は前年の夏(1930年7月)、同社初の女性社員として古川丁未子(とみこ)を編集部に雇い入れていた。配属先は『婦人サロン』。その古川の「綴り方」はこうだ。
◎ 古川丁未子
社員に女の人が居なくて、時々、ひどくつまらなかつたり、とても退屈だと感じる事はあつたが今月から三人も味方が出来て万歳。
「婦人サロン」のためには、女の人ではないけれども菊池さんが入つて来るし──とても近頃編輯室が賑やかになつた。屹度来年は景気のいゝ年であらう。
長らく文士の卵のむくつけき寄り合い所帯として活動してきた文藝春秋社が俄かに賑やかに春めいてきた。
『婦人サロン』編集者・桔梗利一はそうした社風の変化を率直に綴っている。
社の各部の部屋が少し広くなり編輯部員も随分新しい人がふえて来た。菊池[=菊池武憲]、川崎[=川崎竹一]、千葉[=千葉静一]の諸氏に石井、瀬尾、相川の諸嬢──と。で僕なんかこれで割合に古株になつて了つた。うつかりしてゐるとこれらの元気溌剌たる新進に蹴飛ばされさうである。
石井桃子はもうすぐ二十四歳になろうとしていた。
(つづく)