十月は小生にとっては誕生月なのでなんとなく落ち着かない。いやなに、誰も祝ってはくれないのだが、「ああもう××歳か…」と、重ねてきた馬齢に嘆息することしきりなのだ。
生まれたのは1952年10月5日、日曜日。
1952年といえば朝鮮戦争の真っ只中、敗戦国日本が諸外国と締結した平和条約がいよいよ発効し、同時に日米安保条約もスタート、という決定的な年なのだが、肝腎の10月5日はといえば、当日の新聞縮刷版にみる限り、とりたてて事もない平凡な一日だったと思われる。
そもそもこの年に限らず歴史的にみても、10月5日とはさしたる出来事もない凡庸な日らしく、めぼしい偉人や有名人が生まれても死んでもいない。
長いこと、そう信じ込んでいたのだが、先日ふと思いたってウィキペディアで調べてみたら、おお、なんと1908年のこの日、ディック・ミネが誕生しているではないか! ただもう訳もなく嬉しくなり、同じ誕生日の誼みで思わずCDまで購入してしまった。少し早いけど、まあ、自分自身への誕生日プレゼントのつもり。今日はこれを紹介しよう。
ディック・ミネ/ジャズ・ソングズ
1934〜57録音
テイチク TECH 25002 (2004)
一聴して驚嘆久しうした。なにしろ素晴らしいのだ。
お歳を召してからのディック・ミネならTVで何度も観ている。歌謡界の重鎮としてゲスト審査員や表彰式のプレゼンターとして、たびたび出演していたからだ。色眼鏡をかけ貫禄たっぷり、いかにも斯界の大物といった雰囲気を漂わせていた。
その後、マキノ正博の時代劇オペレッタ『鴛鴦歌合戦』(1939)で、お人好しの殿様に扮して軽妙に唄い踊り演ずる若き日の彼を観て、「へえ、こういう時期もあったんだ!」と目を瞠ったものだ。
この覆刻CDは選曲がいい。ディック・ミネが唄った外国曲のカヴァー・ヴァージョンばかり集めており、若き日の彼がいかに「ジャズ・ソング」、すなわちアメリカン・ポップスに長けた歌手であったかを、余すところなく明らかにした。
「ダイナ Dinah」「青空 My Blue Heaven」「林檎の樹の下で In the Shade of the Old Apple Tree」など、ほのぼの、春風駘蕩とした歌いっぷりがなんとも味わい深い。「南京豆売り The Peanut Vendor」の上品なユーモアは格別だし、「セントルイス・ブルース」「意味ないよ(=スウィングしなけりゃ意味ないね)」といったスタンダード・ナンバーでみせる風格と説得力も大したものだ。
無理のないクルーナー唱法は七十年経った今も古びておらず、日本語の訳詞をちょっと巻舌で英語っぽく唄うやり方は大瀧詠一や桑田佳祐を遙かに予告している。
1930年代にディック・ミネが百曲以上吹き込んだという外国曲の白眉は、間違いなく「踊らん哉 Shall We Dance」(1937年9月吹込)だろう。
言わずと知れたアステア&ロジャーズ主演の同題のミュージカル映画の主題歌、作詞作曲はもちろんガーシュウィン兄弟だ。これがジョージ・ガーシュウィンの急逝(1937年7月11日)からわずか二か月後の録音であることに驚かぬ者はあるまい。
Shall we dance or keep on mopin'?
Shall we dance and walk on air?
Shall we give in to despair?
Or shall we dance with never a care?
Life is short, we're growing older.
Don't you be an also ran,
You'd better dance, little lady,
Dance, little man,
Dance whenever you can.
ディック・ミネの歌ではこうなる(訳詞=門田ゆたか)。
踊れ 朗らかに
踊れ 張り切れ
踊れば 胸も
空も 晴れて麗(うら)ら
生命(いのち) 楽しめよ
青春(はる)は 短かい
踊れよ 男も
女も 夢を見つつ
なかなかにスウィング感のあるテイチク・オーケストラ(間奏のピアノは杉原泰蔵)も素晴らしく、日本語の歌詞が無理なくガーシュウィン・メロディに乗って弾む。ちなみにディック・ミネはセカンド・コーラスではアイラ・ガーシュウィンの原詞を流暢な英語で軽やかに唄ってみせる。
この演奏が手本としたに違いないアステア自身の歌唱盤(米Brunswick、1937年3月19日吹込/日本ではコロムビア・ラッキーレコードから発売)では、速射砲のようなタップが繰り出され、ジョニー・グリーン楽団の伴奏のテンポもずっと快速なので、単純に聴き較べるとちょっと勝負にならないのであるが、青春のひとときを慈しむように「いのち楽しめよ、春は短い」と心をこめて唄うディック・ミネの歌唱にもかけがえのない良さがある。
わずか四年後には日米開戦、これを聴き、唄い踊った若者の多くが否応なく戦場に赴いたことを考え併せると、この歌詞を涙なしに聴くことはできない。
小生の手許には、壮樹社出版部というところから出た「踊らん哉」の楽譜がある(1937年11月刊)。「古賀政男名曲楽譜」No.6 という標記がなんとも珍妙な代物だが、ここに採録されていたのがほかならぬ、この門田ゆたかの訳詞なのであった。この歌詞が当時はたして人口に膾炙したものか、長らく疑っていたのだが、このディック・ミネ盤を聴いて積年の疑問が氷解した。
なお、この「踊らん哉」には当時、もうひとつ別の訳詞も存在していたので、ついでに紹介しておく。題名は「踊らうよ」、訳詞はなんと清水俊二である(『映画之友』1937年7月号所収)。
さあさ 踊らうよ
脚も 軽くよ
心の憂さも
さらりと流してよ
どうせ浮世は
まゝにならぬ
苦労を 忘れて
踊らうよ
さあ 踊らうよ
来年の10月5日はディック・ミネの生誕百年目にあたっている。