どうしたはずみなのか、五時過ぎに目が醒めた。もう眠くないので、昨日に引き続き少しだけバッハを聴こう。朝ぼらけのバッハ。起き抜けのバッハ。
今日はアコーディオンで弾いた「ゴルトベルク変奏曲」。ずっと以前に二、三度かけたきり仕舞い込んだままのCDが二枚、ひょっこり姿を現したので、久しぶりに聴き較べてみようというのだ。
スヴェーリンク: 幻想曲「B-A-C-H」
バッハ: ゴルトベルク変奏曲
アコーディオン=シュテファン・フッソング
1988、ヴェーデマルク・スタジオ、ハノーファー
Thorofon CTH 2047 (1988)
バッハ: ゴルトベルク変奏曲(抜粋)
ドメニコ・スカルラッティ: ソナタ K.24, 114, 2020, 476
ヘンデル: シャコンヌ ト長調 HMV435、組曲 ト短調 HMV439
アコーディオン=オイヴィン・ファルメン Øivind Farmen
1994、Vassas Church、ノルウェイ
Laerdal Musikkproduksjon LMPCD 195 (1995)
かつて聴いて衝撃を受けたフッソングの「ゴルトベルク」が、巧みではあるが存外ありきたりな、といっては語弊があるが、面白味に乏しい演奏なのに驚く。これはどうしたことか。
むしろ後発盤のファルメンによる演奏ほうが新鮮に響く。ただしこちらはアリア+変奏九曲+アリアだけなので物足りないこと甚だしい。
う~む、これではどうにも欲求不満、ほかにないものか、とネットで調べてみると、ごく最近フィンランドのミカ・ヴァユリネン Mika Väyrynen なる若い奏者が吹き込んだ新録音があちこちで話題になっているようだ。しかも彼は目下来日中で、なんと今日、東京でほかならぬその「ゴルトベルク変奏曲」の演奏会を催すのだという!
あまりにも出来すぎた偶然に驚くばかりだが、こうなったらもう、渡りに舟というか、乗りかかった舟というべきか、是が非でも生演奏を聴きたくなった。会場のすみだトリフォニーホールに問い合わせたら、当日券があるという。
そういう次第で、夕刻いそいそと錦糸町へ。売り出し時刻の六時半に窓口に赴くと、幸運にも六列目のほぼ中央というベスト・シートが手に入った。開演までまだ間があるので、近所の珈琲屋で暇を潰す。
七時半開演。「ゴルトベルク」ただ一曲だけという潔いプログラムだ。
普段はオーケストラがずらり並ぶ舞台にアコーディオン奏者がぽつり一人。冒頭の「アリア」のか細い生音を聴いて、この大きな空間で演るのは無理じゃないか、と心配になったが、それは杞憂というものだった。変奏部分になると、音量も音色も自在に変幻し、息もつかせぬ瞬間が陸続と繰り出された。これは凄い奏者だ。
目まぐるしいパッセージの目にもとまらぬ早業に唖然とする。両手のボタン捌きの素早さ、鮮やかさにまず目を奪われるが、それが常に豊かなニュアンスを伴って、音楽的に扱われることに感嘆させられる。そう、まさしくグレン・グールドのように。
とりわけ、第十一・十四変奏のような目まぐるしく駆け回るような音楽には、悦ばしくラプソディックな──むしろ mercurial(メルクリウス的、敏捷快活・変幻自在)、と思わず呼びたいような感興が満ち溢れていた。一方で、短調に転じた十五変奏の心に染み入るような瞑想、「序曲」と題された十六変奏の玄妙な響きなど、深々とした味わいにも不足しない。
ヴァユリネンの力量は後半の二十番台の変化に富んだ変奏群でますます明らかになる。バッハがそれぞれの曲に施した創意工夫を余すところなく開示し、聴き手の耳目を惹きつけたまま、一瞬たりとも弛緩の時をつくらない。ここまで緊張感の途切れぬ「ゴルトベルク」はそうそう聴けるものではない。「アコーディオンこそバッハを弾くのに最も相応しい楽器だ」という御喜美江さんの言葉がふっと頭をよぎる。
三十の変奏が終わり、再び穏やかな「アリア」の主題が回帰すると、客席から「ああ…」とも「ふう…」ともつかぬ微かな溜息が漏れるのが聴こえた。
こうしてかけがえのない至福の七十分が瞬く間に過ぎた。
幸せな気分に包まれ陶然となって表に出ると、錦糸町の空に煌々と仲秋の名月がぽっかり浮かんでいた。