昭和初年の文藝春秋社編集部には、はちきれんばかりの活気が漲っていたように思われる。
綺羅星のごとき作家たちが日常的に出入りしていたのは当然として、社主・菊池寛自らが作家であることの反映であろう、編集者の多くは作家志望者、その資質を備えた者、あるいは実際に同人誌などで作品を発表している「物書き」であった。そこから後年、何人もの文筆家が輩出しているのも頷かれよう。代表的な名前を挙げておこう。
佐佐木茂索=1894-1966= '29年『文藝春秋』編集長。のち文藝春秋新社社長。
菅忠雄=1899-1942= '30年『モダン日本』創刊に携わる。のち文筆家。
大草實=1902-1997= 『文藝春秋』編集者。のちの詩人・嵯峨信之。
永井龍男=1904-1990= '29年『婦人サロン』創刊に携わる。作家として大成。
馬海松 マ・ヘソン=1905-1966= 朝鮮出身。『モダン日本』編集に携わる。童話作家。
西村晋一=1906-1968= 『婦人サロン』『モダン日本』創刊に参画。演劇評論家。
近藤経一=生歿不詳= 『映画時代』編集長。劇作やスポーツ小説を手がける。
石井桃子や小里文子の周囲にはこれら錚々たる男性編集者がたむろしていた。
ところで、当時の文藝春秋社編集部の雰囲気を感じ取るには、『文藝春秋』巻末の数頁を覗いてみるに如くはない。
当時の同誌には通常の「編輯後記」のほかに、編集部の日常を面白く活写した「社中日記」や、各編集者が短い署名原稿を寄せる「社中綴方」のコーナーがあり、『文藝春秋』のみならず、『映画時代』『婦人サロン』『オール讀物號』『モダン日本』など姉妹誌のスタッフにも発言の機会が与えられていた。
それら肩の力を抜いた気楽なスケッチを通して、文藝春秋社内に横溢していた自由闊達な気風をそこはかとなく味わうことができる。
その一端をちょっと垣間見てみよう。まずは1930(昭和5)年9月号から。直前の7月、同社では前年に創刊した『婦人サロン』の編集部員として、誌上公募を経て初めての女性社員・古川丁未子(とみこ)を雇い入れたばかりであった。「社中綴方」に当の本人の挨拶がある。
婦人サロンの記者になつてはじめて編輯室に入つた私は、そこに居たエライ方々におめみえして編輯会議に生れて始めて出席した。それは七月十六日の午後三時半頃[、]その朝十時半に大阪から東京駅に着いて、住所を定めてからの事である。
レインボーの一室で開かれたいとも厳粛な会議でそれはあつた。居並んだ御歴々の御面々、火花を散らす大論戦? 私はすつかり逆上してしまつた。誰が誰やら、何が何やらさつぱりわからなくなつてひたすら恐縮した私は、全身の水分は皆汗となつて発散し、喉は声も出ない位乾いてしまひ、お腹は板の様にペシヤンコになつてゐたが、前に置かれたアイス・テイにもサンドヰツチにも手が出なかつた。[…]
けれども、今は、もう大分こゝの空気に馴れました。元気よく働きます。
どうぞ、よろしく。
文中に出てくる「レインボー」とは、当時の文藝春秋社が入っていた東京・内幸町の大阪ビルの地下にあったレストラン「レインボー・グリル」のこと。当時のエッセイや文学的回想に頻繁に登場する場所だ。
ところで、表向きは誌上公募を謳っていたが、実のところ古川丁未子は谷崎潤一郎の強力な推輓によって抜擢された女性。いうならば縁故入社である。いったいどんな娘なのだろうか、編集部員たちは興味津々、戦々兢々だったに違いない。同号の「日記」は面白いほど浮き足だっている。
月 日
新入社の婦人記者古川丁未子嬢俄然、断髪で現はる。逸早くこれを発見した馬海松「おや古川さん断髪したね」といへば、「髪はどうしました」と大草實、捨てましたと聞いて、あゝと感慨無量の態、これは、これ亦、新入社の科学青年立上秀二。
月 日
女気のなかつた社へ婦人記者一人女給仕三人合計四人の匂ひが漂ひ出した。
「俄然賑かだなあ」と、ダンスの相手が見附つたような顔をしたのが大草實。[…]
月 日
新入生古川丁未子から「編輯室のエライ方々」と片カナで偉い方々扱ひされた連中、すつかり憤慨して「おひやらかすないあまつちよ。」は少し乱暴だが、中に人の悪いの「此綴り方は丙までいかない丁未だ、フン」
(10月10日につづく)