七月に続いて歌舞伎座へと赴く。
前回は蜷川演出の『十二夜』だったが、今回は通常の歌舞伎公演だ。「秀山祭九月大歌舞伎」その昼の部。過日、手術のため入院した叔母が快気祝いとしてわれら夫婦を招待してくれたのである。ありがたく好意に甘えさせてもらった次第。
今月の演し物は以下のとおり。
『竜馬がゆく 立志篇』
坂本竜馬/染五郎
桂小五郎/歌昇
池田寅之進/宗之助
中平忠一郎/種太郎
山田広衛/薪車
すぎ/歌江
千葉重太郎/高麗蔵
勝海舟/歌六
『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』
熊谷直実/吉右衛門
相模/福助
藤の方/芝雀
梶原景高/由次郎
亀井六郎/桂三
片岡八郎/宗之助
伊勢三郎/薪車
駿河次郎/吉之助
堤軍次/歌昇
弥陀六/富十郎
源義経/芝翫
『村松風二人汐汲(むらのまつかぜににんしおくみ)』
松風/玉三郎
村雨/福助
新作の『竜馬がゆく』は司馬遼太郎の原作をなぞった平凡な演し物。横須賀での桂小五郎との出逢いから勝海舟の門下生になるまでを描く。歌舞伎っぽい台詞回しや下座音楽はなく、歌舞伎役者が演じる時代劇といった趣き。染五郎のタイトルロールが清々しいのが取り柄かな。
今日の目玉はなんといっても『熊谷陣屋』。名作の誉れ高い作品だが、歌舞伎に疎い小生は初めて観た。
いやはや凄い話なのですね。一ノ谷の合戦で若武者・平敦盛を討ち取って帰還した熊谷直実が、須磨の陣屋にて主君・義経の前で首実検を行う。ところがなんとその首は敦盛ではなく、直実の愛息・小次郎のものだった…という恐ろしい展開。敦盛は後白河法皇の落胤なのだといい、敵ながら皇室の血を引く敦盛を殺したくないという義経の意向を慮って、直実は敦盛の命を救い、その身代わりにわが子を殺してその首を持ち帰ったのである。
すべての登場人物が過去のしがらみと現今の思惑によって複雑に絡み合い、一度観ただけでは関係性が容易に理解できそうにないのだが、それでも実子を殺さねばならない直実の葛藤や、その妻・相模の悲しみの深さは、ストレートにひしひしと伝わってくる。とんでもない理不尽な状況下だからこそ、登場人物のパッショネイトな心情が生々しく溢れ出る。凄まじいドラマだなあ。
吉右衛門の直実が当たり役だ。生真面目な男の一途な煩悶が全身から滲み出て圧巻。そういえば、昔観た彼の『俊寛』でも同じような役づくりで成功していた。
休憩時間にロビーに出たら、初代吉右衛門が直実に扮した最晩年(1952)の写真が飾られていた。54年に亡くなる直前の最後の舞台も『熊谷陣屋』だったそうだ。そもそも今月の標題の「秀山祭」とは初代吉右衛門を追悼する催しである由。
最後の『村松風二人汐汲』は一転して、美しく甘やかなひととき。玉三郎と福助が海女に扮して海辺で優雅に舞い踊る。ふう、なんというこの世ならぬ美しさよ、と溜息をつくうちに、夢か幻かのような三十分があっという間に過ぎ去った。
終演後、隣りの茶屋で叔母としばし感想を語り合った。地下鉄で帰る彼女を見送ったあと、まだ余韻を噛みしめたい小生と家人は、東銀座から築地、入船、新富町を抜けて八丁堀界隈まで、夕暮の下町をのんびり歩いて帰路についた。