(承前)
カッサンドル A. M. Cassandre (本名 Adolph Jean-Marie Mouron 1901-1968)の名は広告ポスターと分かちがたく結びついている。
高速列車「北方急行 Nord Express」、特急寝台列車「北星号 L'Etoile du Nord」(ともに1927)、大西洋横断客船「ノルマンディ号 Normandie」(1935)など、彼の手がけたモダンでダイナミックなポスターは、20年代から30年代にかけて文字どおりヨーロッパを席捲し、世界的な反響を巻き起こした。彼こそは20世紀の宣伝美術の輝けるパイオニアであった。詩人ブレーズ・サンドラールはカッサンドルにのために『スペクタクルは街角にある』なる頌詩を献じ、彼を「街路の演出家」と称揚した。
この時期の業績があまりにも高く評価され、あまねく人口に膾炙したことがかえって災いし、その後のカッサンドルの多方面の仕事ぶりがすっかり霞んでしまったことは否定できない。
彼はタイポグラフィ(活字体)の刷新に力を尽くし、ペーニョ体(1927)、ビフュール体(1929)などを創出したし、30年代には米国の雑誌『ハーパーズ・バザー』の表紙デザインを二年間にわたり担当した。自ら本業と自負していた油彩画にも力を注いだし、第二次大戦後はパテ・マルコニ社(仏EMI)の依頼で夥しい数のLPレコードのジャケット・デザインも手がけている(拙著『12インチのギャラリー』を参照されたい)。
にもかかわらず、人々は目前にいる生身の彼ではなしに、遠い過去の「ポスター作家」カッサンドルばかりを話題にした。1960年代までずっと現役で活躍したにもかかわらず、アール・デコ期に属するいにしえの巨匠としてのみ、彼を遇してしまいがちだった。その弊は21世紀の今日もなお続いている。若くして世界を制覇した者につきまとう不幸な運命といってよい。
「街角のスペクタクル」ならぬ「舞台上のスペクタクル」へのカッサンドルの野望に最初に気づいたのは、ほかならぬ、かのセルゲイ・ディアギレフかもしれない。1929年、新作バレエをヒンデミットに依頼する際に、その装置と衣裳をカッサンドルに委ねる意向だと伝えられたのである。残念ながら、このプロジェクトはディアギレフの突然の死によって水泡と帰してしまうのだが。
実現したカッサンドルの最初の舞台美術は、古代ギリシアを舞台としたジャン・ジロドーの芝居『アンフィトリュオン 38』(1933)のためのもの。ルイ・ジューヴェが演出し、パリのアテネ座の舞台にかかった。
そのあとはバレエの仕事が続く。まず、ディアギレフの後継をもって任ずるバレエ団、ド・バジル大佐の「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」の依頼で、プーランクの新作「オーバード(朝の歌)」の背景画を手がける。これが1934年のこと。
その後は占領下のパリで、これまたディアギレフのかつての秘蔵っ子で後継者たるセルジュ・リファールとの交遊が深まり、1941年の『騎士と貴婦人』(フィリップ・ゴーベール作曲)を皮切りに、彼が芸術監督を務めるパリのオペラ座でカッサンドルの意欲作が舞台にかけられる。1944年には超現実的な幻想味の濃い『ミラージュ Les Mirages』(アンリ・ソーゲ作曲)上演が準備される(パリ解放後、リファールの公職追放のあおりで初演は47年)。これはオペラ座のレパートリーとして定着し、近年もたびたび舞台にかけられているようだ。
このほかリファールがモンテカルロに退いていた時期も、彼と組んでバッハの音楽を用いたバレエ『ドランマ・ペル・ムシカ(音楽劇)』の荘重な舞台美術を手がけ、これは46年モンテカルロ歌劇場で初演された。
1948年秋、エクス=アン=プロヴァンスで第一回目の音楽祭を成功裏に終えたばかりの興行主ガブリエル・デュシュルジェが、カッサンドルに未曾有の「大仕事」を持ちかけたのは、まさにこの時期であった。もちろんこれは舞台美術の分野でのカッサンドルの実力と野望を充分に見極めたうえでの決断だったのである。
(明後日につづく)