(承前)
ガブリエル・デュシュルジェ Gabriel Dussurget は1904年に生まれたフランスの興行主兼プロデューサー。広く音楽界・演劇界に顔の利く、なかなかの大物であったとおぼしい。
ナチス占領下のパリで事務所を構えて演奏会企画の仕事に打ち込み、歌手のジャック・ジャンサン、ヴァイオリン奏者のジネット・ヌヴー、チェロ奏者のモーリス・ジャンドロン、作曲家のオリヴィエ・メシアンらの才能をいち早く見出すとともに、マドレーヌ・ルノー、ジャン=ルイ・バロー、レイモン・ルーロー、ピエール・ベルタンらとともに演劇芸術学校を立ち上げた。
パリ解放後は1945年にシャンゼリゼ・バレエ団の創設を手助けし、ローラン・プティに数々の新作を創らせるなど、舞踊界でも小さからぬ足跡を残している。
そのデュシュルジェがプロデュースを任されたエクス=アン=プロヴァンス音楽祭が、際立った特色としていたのは、音楽の枠内に留まらず、ジャンルを超えて優れた才能を抜擢した点であろう。ロスバウトを音楽監督に据え、あまたの若手歌手を発掘したのみならず、幅広く演劇・美術の領域から適材を登用した。20世紀前半にセルゲイ・ディアギレフがフランスの地にもたらした「総合芸術」の理想は、第二次大戦後、エクス=アン=プロヴァンスの地で再び夢見られたのである。
第一年目の1948年を例にとるなら、こけら落としのオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』の舞台美術にジャン・コクトーと親しいジョルジュ・ヴァケヴィッチ(バレエ『若者と死』、映画『双頭の鷲』『悲恋』)を起用し、演出を気心の知れたピエール・ベルタンの手に委ねている。ちなみに、舞台俳優として名高いベルタンは、青春期にエリック・サティやフランス六人組と親しく交わり、ピアニストのマルセル・メイエールを妻にするなど、音楽とゆかりの深い演劇人であった。
デュシュルジェの采配が最も冴えわたったのは美術家の人選においてだった。
バレエ・リュスにも係わった老巨匠アンドレ・ドラン(『後宮からの誘拐』『セビーリャの理髪師』)を筆頭に、バルテュス(『コシ・ファン・トゥッテ』再演)、アントニ・クラーベ(『フィガロの結婚』)、アンドレ・マッソン(『タウリスのイフィゲネイア』)、ジャン=ドニ・マルクレス(『プラテ』『魔笛』)など、綺羅星の如き秀才が惜しげもなく起用された。そう、まさにディアギレフならばそうしたろう、と言わんばかりに。
第二年目の1949年、念願の『ドン・ジョヴァンニ』上演に際して、満を持したデュシュルジェが白羽の矢を立てた美術家は誰あろう、アドルフ・ジャン=マリー・ムーロン、またの名をカッサンドルといった。
(明後日につづく)