然るべき正しい時代に生まれあわせるのも才能だ。そう喝破したのは蓮實重彦だったろうか。
ハンス・ロスバウトが指揮する『ドン・ジョヴァンニ』の実況録音(1956)にしたたかに打ちのめされ、ふとこんな警句が口をついて出た。
かくも壮烈にして豊穣な演奏がなされていながら、その現場に居合わせられなかった者は不幸というほかない。ましてその時代にすら遭遇しえなかった者は…そう、蓮實教授に言われるまでもなく、自らの才能の乏しさを呪うしか術はあるまい。
ロスバウトがエクス=アン=プロヴァンス音楽祭で1956年に振った『ドン・ジョヴァンニ』ならば、仏EMI(Pathé Marconi)に正規録音があるじゃないか、とおっしゃる方。違いますよ、あれは音楽祭が終了したあと、ほとんど同一のメンバーがパリに再結集してスタジオ収録したシロモノ。いや、勿論あれはあれで悪くない演奏だが、このたび新たに出現したエクスでの上演実況録音を聴いてしまうと、もうまるきり月と鼈(すっぽん)というか、実体とその影というか、本人とその蝋人形というか、とにかく似て非なる別物というほかない。
それはもう序曲冒頭の一音からして、覇気がまるで違うのですね。
紹介が遅くなったが、今日ここで採り上げたいのはこのアルバムだ。
Mozart: Don Giovanni
Teresa Stich-Randall (Donna Anna)
Suzanne Danco (Donna Elvira)
Anna Moffo (Zerlina)
Antonio Campo (Don Giovanni)
Marcello Cortis (Leporello)
Nicolai Gedda (Don Ottavio)
Rolando Panerai (Masetto)
Raffaelle Arie (Il Commendatore)
Choeur du Conservatoire de Paris
Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire
Hans Rosbaud (piano et direction)
Théâtre de la Cour de l'Archevêché, Aix-en-Provence
12 juillet 1956
INA mémoire vive IMV 074 (2007)
一瞥して、いかにも地味なキャストと思われたのではないか。ウィーンやザルツブルクでのモーツァルト上演と比較するまでもなく、めぼしいスターの不在は明らかだろう。とりわけ男声陣がそうで、主役も相方のレポレッロも知名度を欠いているし、やがて全欧で名声を勝ち得ることになるニコライ・ゲッダもロランド・パネライも、この時点ではまだ三十そこそこの若造だ。
だが、序曲が終わり幕が上がると、すぐさま思い知らされる。いささか悪達者めいたレポレッロの唄に続き、ドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニが絡むあたりで「なるほど」と膝を打った。エクス=アン=プロヴァンスの『ドン・ジョヴァンニ』はひたすらアンサンブルで聴かせるオペラなのだ。
(明日につづく)