昨日の続き。『幻の朱い実』からの引用、すぐそのあとに続く文章だ。明子は胸のわだかまりを解こうとして、思わず蕗子にこう問い詰めた。
「志摩子さん、いってましたよ。大津さん、雑誌社に溝口さんが泊りにきた最初の晩、溝口さんの部屋にいって寝たんだって……」
「清水の舞台からとびおりた」気持ちでそう切り出した明子に対して、蕗子は平然とこう答えた。
「[…]その話ね、半分うそ。でも、あなたなら、どうする? くわしいことは省きますけどね、あたし、その頃、ゆきどころなくて、雑誌社にもうひとりの女のひとと泊りこんでたのよ。そしたら、あのひとも、おくさんなくして、そこへ転がりこんできて、隣りの部屋から、小声でボソボソ、愛の言葉ささやくじゃない? あたし、初めは『え? え?』っていてたんだけど、どなってばかりいるのもわきに寝てる友だちにわるくなって、『それじゃ、そっちへゆくわ。』っていって、そっちの部屋へ布団ひっぱっていったんですよ。あたしが、夜、どこででもよく眠れること、もうあなたも知ってるでしょう? あたしが、眠くてうとうとしてると、あのひと、『ぼくとあなたと暮したら、どんなに素晴らしいだろう』みたいなこというの。
あたし、郷里へは帰れないし、そうそう先生の御厄介になってもいられないってところへ来てたから、あのひとについてって、あるところに部屋借りたんですよ。そしたら、あなた、あのひと、どういうわけか、着物は着たきり雀。布団は、あたしのひと組あるっきりよ。あのひと、あたしの浴衣着て寝たんですよ。ちっとも素晴らしいことなんかありゃしない。」
明子はこの蕗子の「釈明」に一応は納得する。果たして読者はどうであろうか。
ちなみに上の文中で「先生」と呼ばれているのは、蕗子が勤める雑誌社の社長である大河内国士、「文壇の大御所といわれている作家」のこと。むろんこれは菊池寛その人に違いない。
現実の小里文子が横光利一と奇妙な交際の果てに同棲にまで及んだのは、(『計算した女』に拠れば)横光の妻の死の半月後というから、1926年7月のことだったと推察される。ふたりの恋愛関係はほどなく瓦解し、半年後の27年1月、横光は小里との同居生活を題材とした(とされる)『計算した女』を発表する。この短篇が小さからぬ波紋を呼び、小里の身辺にスキャンダルを巻き起こしただろうことは想像に難くない。
菊池寛にとってみれば、横光はかつての愛弟子であり、いわば親しい弟分のような存在。妻の死で落胆している彼を言葉巧みに誘惑し、その心を撹乱し、いうならば手玉に取った小里の姿は、危険極まりない小悪魔と映ったのではなかろうか。前回ご紹介した菊池の回想が小里を悪しざまに評しているのはその名残なのであろう。
それから小里はどうなったのか。文藝春秋社をクビになったのだろうか。このあたりの顛末は小生にはまだ詳らかにできない。
石井桃子が文藝春秋社に入社したのは1929年12月とされる(小生の調査によれば1931年1月)。ただし彼女は日本女子大在学中から同社で洋書の要約抜粋のアルバイトをしていたらしいので、四学年の27年にはおそらく編集部周辺にあって、この先輩の「華麗なる遍歴」の噂を耳にしたかもしれない。
(23日につづく)